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セイラ3 ラスト・シーン [セイラ3]

 別離





 風花は、カイを抱き締めた姿で、彼女の本来の住処に姿を表わした。魔界の空気に触れると、ホトトギスに負わされた彼女の背中の傷はたちどころに癒された。彼女は、カイを寝台に静かに下ろすと、傷の具合を調べ始めた。


 風花の剣とホトトギスの気弾との衝撃に巻き込まれ、カイは酷い火傷を負っていた。彼女はその傷を癒そうとカイの体に手を翳そうとした。力溢れる彼女にとり、カイの火傷を癒すことなど造作もないことであっただが、淡い光に包まれた彼女の手がカイの火傷を癒すことはなかった。


 自己の強すぎる魔力を振るうことの危険性を察知したためであ。余りに強すぎる彼女の力は、カイの霊性を変質させる危険性があった。彼女はその危険性に思い当たり、自分の力を振るいかねたのだそして、苦しそう息をあえぎあえぎ漏らすカイの姿を目にし、彼女の目から涙が湧き上がってきた。自らの命より大切なカイの命が、自分の目の前で、その美しい炎を消し去ろうとしているのだ。それなのに、ただそれを見守ることしか出来なかった。彼女は自分の無力さに打ちひしがれ、ただ涙を浮かべることしか出来なかった。


 風花の涙が一雫また一雫と綺麗な光を放ちながらカイの顔に流れ落ちていった。その涙で、カイが意識を取り戻した。そして、風花の顔を見て、カイが彼女に語りかけた。


「泣かないで」


 カイはそう言いながら彼女に微笑みかけた。そして、もう一度「泣かないで」と言った後、再び意識を手放した。


 風花は、カイのこの告白を聞き、涙がとめどなく流れだしたそして、生命の炎を弱らせてゆくカイを見守りながら、カイのために最善策を模索し始めた。


 取り合えず、カイの火傷を治療する必要があった。彼女は、何もない空中から氷を取り出しそれを彼女の造り出した気で包み、カイの体に直接触れさせないようにして、それをカイの火傷部に当てた。彼女の気に包まれた氷に火傷部の熱を奪わせた。余りに急速に冷やしすぎないように、細心の注意を払いカイの体から火傷の熱を奪い続けた。


 その涼気にカイの表情が微かに和らいできた。彼女は、カイの顔色の変化を見て、自分の処置が間違っていないことを知り、ほっと安堵した。しかし、彼女の期待をよそに、カイの表情が再び険しくなっていった。人間でない彼女には、その理由が分からなかった。彼女はその狼狽しながらその理由を考え始めた。そして、その理由に突き当たり絶望した。


「魔界の空気が、人間のカイには合わないんだわ」


 ここは魔界である。魔族の住処で、人間の住処はなかった。人間界とは異質な気がカイの生命を次第次第に弱らせて、彼の生命を変質させていた。風花は体を小刻みに震わせてカイを茫然と眺め続けた。そして、彼女は決心した。

 風花は、ホトトギスの現れるときを待った。彼女が人間界に創った、彼女の予想した通り、それから幾らもしないうちに、ホトトギスが彼女の背後に姿を現した。


「分かっているんだろう」


 彼の優しい響きのある問いかけに、風花は頷いた。人間は人間界にこそあるべきなのだ。その生を育み、成長させる場所はこの場所以外にない。風花は頷いた後に、カイから奪った記憶を返すために、彼の拾い額に優しくキスをした。そして、別れを告げるために、カイの肉薄な柔らかい唇に自分の唇を重ねた。彼女カイの唇の感触を確かめた後、彼の小さな体を抱き上げ、ホトトギスに静かに手渡した。そして、カイから背を向けて、背中でカイを見送った。来た時と同じようにホトトギスがこの場から姿を消すと、気丈に振る舞っていた彼女の琴線が一気に切れた。彼女はその場に泣き崩れた。


 暫時泣き明かした後、彼女は毅然とした姿で立ち上がった。彼女はこの別れが一時的なものであることを知っていた。愛し合うものを裂ける力などこの世界には存在しない。カイが風花を、風花がカイを愛したのは事実であり、その思いが真実ならば、二人は必ず巡り会うことが出来る。風花はその時を待つことにした。人間的にさらに成長するカイを、影で守ろうと決意した。





 そして





 カイを奪還したセイラとクロウリーは、ホトトギスの力で一気に王都まで瞬間移動させられた。さすがのホトトギスも、物質界の長期の滞在と、風花とカイの容赦のない攻撃を受けたために、すっかり疲弊していた。このため、物質界に実体化することもままならなくなり、傷を癒すために、あっさりと魔界に帰還してしまった。


 ホトトギスから解放されセイラはカイの看護が可能になった。彼女にとって目に入れても痛くないほどの、かわいいカイである。カイの看護は彼女の苦にならなかった


 看病を始めてから三日目の朝のことである。風花との死闘とカイへの献身的な看護の疲れから、セイラは、いつしか、カイのベッドへもたれかかるように眠っていた。窓から聞こえる鳥の鳴き声で目を覚ましたセイラは、カイの容態を確かめるために、カイの顔を見た。そして、昨日よりもさらに生気を取り戻し、ほんのりと赤味を帯びたカイの頬に彼女の目は釘付けになった。


カイ君、怒らないよね


 彼女は声にならない声で自身にそう言い聞かせて、カイの頬を優しく突いてみた。


『何、この感触。癖になりそう』


 その弾力を楽しむために、更に突いてみた。


『こんなんじゃ、全然、物足りないわ。それに、カイ君は私の弟のようなものだし、いいよね、カイ君』


 セイラは、カイを起こさないように静かに顔を近づけると、頬刷りを始めた。

『あ~、癖になっちゃう』 


「お姉ちゃん、何をやっているの」


 何時しか目を覚ましたカイが呆れ顔でそう言った。


「そんなに怒らなくてもいいじゃない。ねっ、ねっ。


 セイラはそう言うと、カイの頭を抱きかかえ、カイの顔を胸の谷間に挟み込んだい。


 カイは納得の行かない顔をしていたが、諦めたように小さく溜め息を吐いた。


 そのため息に促されるように、カイの体を解放すると、恐る恐る「カイ君、何か憶えている」と質問をしてみた。


 風花はカイから夢の城での記憶を全て奪っていた。そして、カイは彼女の質問の意図が理解できず当惑した表情を浮かべた。セイラは、その表情を見て、安堵した。彼女は「そう」とだけ小さな声で言うと、カイの柔らかい頬を再び突き始めた


「良いの、そんなことをして。お兄ちゃん、怒っちゃうよ」


「良いの、良いの。あんなバカ鳥


 セイラは即座にそう答えると、なおも、カイの弾力性のある頬を突き続けた。カイは彼女の子供扱いに立腹していたが、セイラはそれを気にすることなく、かわいい弟分のカイの頬の感触を楽しみ続けた。


八章の続き [セイラ3]

 死闘





「また来たの、親愛なるお馬鹿さん」


 三人が己の分を弁えず、再び自分に勝負を挑もうとするのを見て、風花が痛烈な歓迎の言葉を浴びせかけた。しかし、風花は、歩み寄る三人に気を払う様子も見せず、膝の上に乗せたカイと再び遊び始めた。


 風花の余裕綽々の姿を見て、セイラの血が一気に頭へと逆流した。


「カイ君を放しなさい」


 セイラは、そう言った後、腰にはいてある剣をすらりと抜き、その剣を風花に向けた。そして、鋭い眼光で風花を凝視した。


 セイラの不遜な物言いに怒った様子を見せることなく、風花はカイを静かに膝の上から下ろすと、優雅な所作で椅子から静かに立ち上がった。そして、威勢の良い愚かな娘を呆れ顔で見つめ笑いながらこう言った。


「元気の良いお嬢さんのようですね。あなたが私と戦うのかしら」


 魔族と人間である。勝負の趨勢は誰にでも容易に想像が出来る。しかし、命知らずなセイラは今にも風花に飛びかかる勢いであった。ホトトギスは、セイラを宥めるように、彼女の前に右手を出し、彼女の動きを制した。そして、風花におもむろに言った。


「お前の相手が俺だ」


 ホトトギスはそう言うと風花に向かい静かに歩き出した。そして、上位魔族同士の静かな、しかし激しい戦いが再開された


 彼を包む漆黒の気が、風花の攻撃を受けて輝く。彼女の攻撃を受ける度に、様々な光を放ち、彼のみを守る障壁が激しく震え始めた。今の所は風花との均衡を辛うじて保っていたが、その均衡が何時破れても不思議ではなかった。この魔術空間の支配者は風花であり、彼ではなかったのだからホトトギスは防戦に徹しながら、反撃の機会を窺った。


 一方、この空間の支配者である風花は、勝利者然とした姿で、次々と青年に自らの力を発揮した。静かな瞳で彼を睨み付けた瞬間、透明な、しかし、僅かに青みがかった無数の風の刃が、四方八方から彼をめがけて殺到した。


 彼の身を守り続けていた結界をあざ笑うかのように、風の刃は易々と彼の結界を切り裂き、彼の体に殺到する。その刃は、自らの意志を持つかのように、彼の体を切り裂いた後、途中の空間で折り返し再び彼の体に襲いかかった。みるみる内に、彼の体は血に染まっていった。彼はその刃から身を懸命に交わしながら、黒い気弾で一つずつ撃ち落としてゆく。


「馬鹿な。俺、こんなに弱かったかな」


 風花の攻撃に翻弄されながら、彼は自分にそう毒突いた。


 互いに上位魔族同士であり、二人の力は均衡しているはずであった。この空間の支配者が風花であることを考慮に入れても、彼が訝ったように、このように一方的な戦いになるはずがなかった。ホトトギスは、微かに狼狽し、風花の周囲を巡るようにして反撃を繰り返した。


 ホトトギスは地上に長くいすぎた。彼が予想していたより遙かに、彼は、物質界に存在するために、力を消費し、疲弊していた。そんな彼の攻撃を、風花は易々と交わしてゆく。互いに本気の力を発現できない以上、戦いは持久戦になる。ただでさえ、疲労している彼にとって不利な状況であった。持久戦は、風花にこそ有利に作用するのだから。


 二人の静かな戦いとは別に、もう一つの戦いが始まろうとしていた。カイが風花の手になる剣を持ち、ゆっくりとセイラに近づいてきた。セイラはカイの瞳を見て愕然とした。殺意とは異なる静かな闘志を秘めた、氷のように澄んだ、冷たい瞳をしていたからだ。その瞳を見たら、虎でさえ戦慄してしまうだろう。それ思わせるほど、冴え冴えとした静かな瞳であった。セイラの闘志が、その冷たい瞳の輝きを見て、凍りついた。彼女の体が呪縛された。


「セイラさん、しっかりして下さい」


 クロウリーが身動きの取れない彼女を叱りつけた。と同時に、用意してきた呪符をカイに投げつけた。魔術を事前に封印した呪符は、カイの前で炸裂し、多量の光を周囲にまき散らした。


 セイラは、その閃光と爆音でカイの瞳の呪縛から解放された。一方、カイは突然の閃光と爆音に意表をつかれてしまった。セイラは、対カイ戦のために準備してきた棍棒を振りかざし、カイに襲いかかった。


 予期せぬセイラの突撃に不意を突かれたが、カイは容易くセイラの棍棒の一撃を剣で受けとめた。そして、セイラに返す刀で襲いかかった。カイの光速の剣を、セイラは必死の形相をして、すんでの所で受けとめた。


 剣技において、カイに優る人間は存在しない。しかも、今のカイは、風花の手になる神秘の力を秘めた妖刀を手にしていた。セイラはたちまちのうちにカイに追い詰められてしまう。懸命の防戦であったが、カイの斬撃を受け損ねて、彼女は所々に薄手を追っていた。そして、また、右籠手にカイの斬撃を受けた。彼女の籠手はなめしたに特殊な処理を施したものであったが、カイの一撃はその籠手を紙を切るかのように切り裂き、彼女の前椀にまで達した。ぶしゅっと鮮血が迸った。


 クロウリーは、術をしかけるタイミングを窺っていたが、セイラが籠手から血を噴き出させているのを見て、慌てて術を繰り出した。彼が以前カイにしかけた雷球の呪文であった。それは、小さく蛇行しながら周囲に眩い光を放ち、カイに猛烈な勢いで迫っていった。


 カイは、それを目にし、セイラに止めを刺すのをひとまず断念し、後ろに飛び退いた。そして、雷球を迎え撃つために、剣を構えた。そして、剣を振り下ろす瞬間、目を保護するために瞼を閉じた。瞼を通過する光と雷球の発する音を頼りに剣を振り下ろした。


「ばちっ」


 剣と雷球が接触した瞬間、乾いた音が静まり返った部屋に響き渡った。雷球は、カイの剣の魔力と干渉し、反発しあい、膨大な光を放ち消滅した。その際の衝撃でカイの小さな体が後方に吹き飛ばされた。カイは、受け身をしっかり取り、床との衝突の際の衝撃を緩和させ、すぐさまその場に立ち上がると、すぐさま、剣を二人に向けて構えを取った。


 カイに対して意外に善戦する二人を横目に挟み、ホトトギスは血だらけの顔に微かな笑みを浮かべた。すっかり疲弊した彼に、止めとばかりに、風花は力を解放しようとした。その時、彼女の体の動きを何物かが束縛した。彼女はその原因を探るために周囲を見回そうとした。その時、ホトトギスが彼女を嘲るかのように言い捨てた。


「調子になるから、こううことになるんだ」


 ホトトギスは彼女の周囲を無意味に回り続けたのではなかった。彼女を閉じ込めるための円陣、この力場を、彼女の周囲を巡ることにより形成していたのだ。圧倒的な優位に気の緩んでいる彼女に気付かれぬように、慎重に、狡猾に彼女を閉じ込めるための檻を作っていた。彼女に戦って勝てない以上、それ以外方策がなかったから。その効果が何時まで持つかは不明であるが、すぐには破れないはずであった。ホトトギスは、光に檻に閉じ込められた風花に「そこで、しばらく大人しくしていろ」と言うと、カイの下に向かった。


 カイは、風花が檻に閉じ込められたことを知ると、彼女を救出するためにセイラへの攻撃を中断し、檻へと走り出した。そのカイを制止するために、漆黒の剣を手に持ったホトトギスがカイの前に立ちはだかった。カイは、風花を閉じ込めたホトトギスを見ると、殺意をあらわにして剣を身構えた。


 ホトトギスは、その姿を見て、心中で「全く、手間のかかる小僧だ」と毒突きながら、剣を身構えた。魔族と人間である。その基本的な能力の差は比較にならない。ホトトギスは剣技など知らなかったが、自分の潜在的な能力を信じてカイに剣の戦いを挑んだ。


 だが、カイの剣技は彼の予想を遙かに上回るものであった。ホトトギスは、セイラに付き纏う間に、カイの剣を何度も見てきていたが、ここまで卓越した技量を有していなかったはずである。カイの急成長の理由を探っている間に、数カ所の薄手を負ってしまった。彼は剣を数太刀重ねるうちに、カイの剣が侮れないものであることを思い知らされた風花との戦いによって彼の疲労はピークに達していた。その上、人間の肉体という厄介なお荷物を身に纏っていた。慣れない肉体と疲労が、ホトトギス本来の敏捷性を奪っていた。ホトトギスも次第に本気になり、カイの一撃を受け止め、鍔迫り合いを始めた。


 カイの剣技が如何に優れたものであっても、所詮、まだカイは年端のゆかない子供であった。鍔迫り合いで動きを封じてしまえば、子供のカイは恐れるに足る存在ではなかった。彼の予想した通り、鍔迫り合いをしているうちに、カイの息が上がり、彼の体力に押されて徐々に体勢が崩れていった。ホトトギスは勝利を確信してさらに剣に力を込めた。カイの体がさらに傾いだ。カイを床に打ち据えるためにさらに力を込めた。


 カイはホトトギスの力に耐えかね、態勢をさらに崩していった。このままでは、床に叩き付けられるのは時間の問題であった。しかし、体力に劣る者には、劣る者としての戦い方がある。カイはその戦い方を知っていた。カイは、起死回生を図るために、自身のしなやかな体のばねを使い、一瞬だけ彼を押し返した。そして、一気に体を退いた。カイの思った通り、機敏性を欠いているホトトギスはカイのこの動きに対応し切れなかった。カイはがら空きになったホトトギスの右小手に剣を振るった。セイラの時とは違い、防具も何も着けていないただの右腕である。カイの剣は、その速度を失うことなく、一気に彼の肉骨を断ち、彼の右小手を両断した。そして、止めを刺すために今度は彼の首を狙った。


 これがただの剣であったなら、彼の本質を包むだけの器に過ぎない肉体を断っただけであろう。肉を切られようが、骨を断たれようが、魔族である彼にとり如何ばかりの事はなかった。しかし、カイの剣はただの剣ではなかった。魔力を帯びた剣の一撃で、物理的な肉体ではなく、彼の本質、魔性と言ったものが傷つけられた。そして、彼の魂が咆吼を上げた。その痛みに苦悶する間に、彼の命を絶とうとする剣の一撃を見た。そして、不死であるがの一撃を受けたらただで済まないことを直観した。


 彼は、剣による攻撃ではなく、自らに本来宿る力でカイを迎え撃つことし黒い気弾を放った。十分に抑制された一撃であったが、カイの手にする剣を瞬時に粉砕した。その余りに強力な一撃は、カイの剣を粉砕するだけでは済まず、カイの少年の体をも襲いかかった。カイの小さな体が宙に舞った。


「カイ」


 カイの体が宙に舞ったとき、二人の女性の悲鳴が同時に上がった。それと同時に、風花を閉じ込めていた光の檻が、風花の激しい怒りの前に砕け散った


 ホトトギスは、振り返りその光景を見て、思わず「嘘だろう」という情けない声を上げてしまった。今の彼には、風花と渡り合える力は残っていなかった。彼は狼狽えながら、風花を迎え撃つために態勢を整えようとした。その時、風花の体が忽然と消えた。彼は「逃げたのか」と一瞬考えたが、その考えを即座に否定した。彼と同様に風花も一人の人間に妄執し、その彼女がカイを見捨てて逃げるとは考えられなかった。彼は気を集中し彼女の出現する場所を探り始めた。疲れきった体で、消耗した力で風花の出現位置を予想しようとした。


 風花が突然彼の眼前に姿を現した。彼はあわてて彼女を迎え撃とうとしたが、風花は彼に背を向けたままの姿で床に打ち据えられたカイに手を伸ばした。


 ホトトギスは「させるか」と叫び、渾身の気弾を発した。それは「ばしっ」という音を立てて、風花の結界と衝突した。閃光が辺りを包んだ。風花の透明な僅かに緑色を帯びた血液が四方に飛び散った。彼は更なる気弾を放つべく気を集中した。そして、漆黒の気弾を放った。眩しい光の中を、その光を払いのけながら漆黒の気弾が直進していった。そして、一際眩しい閃光を放ち、その気弾が炸裂した。





 セイラは息を凝らして、事態の成りゆきを確かめるために閃光の消滅する時を待った。そして、愕然とした。彼女はホトトギスに走り寄り、彼の厚い胸を何度も叩きながら、涙交じりの声で抗議した。


「馬鹿、馬鹿。カイ君まで死んじゃったじゃない」


 彼女はそう言い終わると、力なくその場に泣き崩れた。クロウリーが静かに彼女の側に歩み寄り、小さな声で彼女に慰めの声をかけた。


「仕方ありませんよ。相手が強すぎたのですから」


 クロウリーは、カイと風花がいた場所にもう一度目を向けた。上位魔族の気弾を受け、周囲の空間が消滅しぽっかりと開いた虚空だけがそこにはあった。


 ホトトギスは、二人が何か勘違いをしているのに気づき、呆れた顔をして「お前ら、何か誤解していないか」と二人に声をかけた。それから、床に転がっている自分の右腕を拾い上げ、それを丁寧にくっつけた。


「いったい、何を勘違いしていると言うのよ。言い訳なんかしないで。カイ君が消し飛んじゃない。返してよ、カイ君


 セイラが半べそをかきながら気丈に自分に抗議した。ホトトギスは、彼女のその姿に苦笑した。繋ぎ合わせた右腕を上下させながら、その具合を確かめてから、「カイもあいつも、まだ、生きているよ。それじゃ、カイを連れ戻しに行くか」と言うと、忽然と姿を消した。


八章 [セイラ3]

八章 激突





 決戦前夜





 最後の晩餐とばかりに、その夜の料理は豪華なものになった。明日に支障が来さぬ程度に、セイラとクロウリーは酔いしれた。そして、寝台へと向かった。


 魔族であるホトトギスは、お酒を痛飲しても、人間とは異なり酔い潰れることはない。セイラに肩を貸して、彼女の寝台まで案内した。その後、時分の寝台に戻り、彼女の寝静まるときを待った。


 セイラの静かな寝息の音を立てるのを待ってホトトギス行動に移った。生らに気付かれないように、足音を忍ばせて彼女の寝台に歩み寄った。彼は足を一歩進めるたびに彼女の顔を窺いながら、自らの勝利を確信した。そして、彼女の寝台に潜り込み始めた。


 セイラの体が微かに蠢いた。彼は気取られたかと一瞬体を強ばらせ、彼女から来るであろう手痛い一撃に備えた。幸いなことに、それは杞憂であった。ホトトギスは少しずつ体を寝台に滑り込ませた。セイラに気づかれないように、ゆっくりと、しかし、確実に彼女の寝台に潜り込んでいった。


 寝台の中は暖かかった。アルコールを飲んだセイラの体は温かかった。早春の夜気で冷え切ったホトトギスの体には、それが何よりのご馳走であった。ホトトギスは更なる暖を求めるために、熱源である彼女の体に、ナメクジが這うような速度で彼女に近づいていった。


 彼女の体に近づくにつれ、彼女の肌の、髪の匂いがするはずであった。しかし、この日は生憎セイラ酒を浴びるほど飲んでいたために、その代わりにアルコールの匂いがしてきた。ホトトギスは、「詐欺だ」と心中の声で声高に叫んだ。近づくにつれ、アルコールとそれを大量に含んだ汗の匂いが強くなってきた。彼は、それに閉口しながら体を少しずつ彼女に近づかせていった


 肌が接触するほど近くに来たとき、ホトトギスは、夜具から出ている彼女の腕に恐る恐る指を伸ばした。お酒に上気した彼女の肌は、彼が期待したようなさらさら肌ではなく、アルコールを多量に含んだ粘着質な汗でじっとりと濡れていた。ホトトギスはすっかり当てが外れ少し落胆したが、すぐさま気を取り直して、彼女の汗を人差し指でひょいと拭い、その指を口に含んだ。すると、未だ嘗て彼の経験したことのない凄まじい味がし、胃液が逆流するような激しい嘔吐感に襲われた。


 ホトトギスは、明日、汚れを知らない彼女の為に、命をも捧げる覚悟でいた。少女向けの恋愛小説のように、今夜二人は永遠の愛を誓い、一夜限りの儚い、しかし、感動的な契りを交わすべなのである。ホトトギスの知性はそう強く主張した。少なくとも、ヒロインが酔い潰れ、ヒーローである彼が彼女の寝汗を嘗めて吐き気を催すと言うことがあって良いはずがない。もっとロマンティックであるべき


 ホトトギスは、そう思い、セイラの背中をつんつんと突き始めた。


 最初は、弱くつんつんと突いていたが、セイラはまったく反応を示さなかった。そこで、ホトトギスは、その強度を徐々に強めて、突き始めた。今度は、セイラが応えてくれた。セイラは、蝿でも追うかのように、右手で彼の人差し指を煩げに追い払っただけであった。これで彼が満足するはずがなかった。ホトトギスは、なおも辛抱強く突き続けたが、これ以上の反応が彼女から返ってくることはなかった。


 ホトトギスは、どうしたらセイラが目を覚まし、自分に構ってくれるのかを考え始めた。


 ホトトギスとしては、不本意であったが、セイラに遊んで貰うために、奥の手を使うことにした。


 彼女の豊かな胸に、背後からこっそりと手を回し、つんつんと左手の人差し指で彼女の胸を突き始めた。その瞬間、セイラの目がかっと開いた。彼の左手首をあざが残るほど強く握り、それを彼女の手前のほうに引き寄せた。彼女の眼前に来た彼の顔を見て、「この手は何」と詰問した。


 ホトトギスは、予想通りの展開に満足し、なんら悪びれるところもなく、嬉々とした声で「ねぇねぇ、遊んで」と言った


 セイラは、ふざけた彼の表情を見て大きく嘆息してから、躾のために眼前にある彼の鼻に頭突きした。狙い違わず、彼の高い鼻に命中した。彼の鼻から滴る鼻血の匂いを嗅ぎ、彼女は激しい嘔吐感を催した。


 一刻の猶予もなかった。彼女は目を忙しく動かして適当な場所を探した。しかし、彼女が重傷を負って以来、いつも近くに置いてあった洗面器がこの日に限って、何処を探しても見つからなかった。彼女は、限界に達し、鼻を押さえているホトトギスに声高に命令した。


「口を大きく開けて」


 彼は鼻を押さえていたが、セイラの厳しい口調に圧され、「はい」と大きく返事をし、大きく口を開けた。その時、セイラの上気した顔が近づいてきた。だが、ホトトギスは、どうして自分が口を開けさせられているのか理解できなかった。そして、キスをするのに、口を大きく開いたままでは不都合ではないのかと思った。そう思っている間にも、さらに、セイラの血色の良い肉感的な唇が接近してきた。彼の視線は彼女の唇に釘付けになり、全ての思考が停止した。ホトトギスは目を閉じてその瞬間を待った。


 セイラの両手が彼の頭をしっかりと固定した。ホトトギスは歓びで体を震わせた。その時、セイラの苦悶の声が聞こえてきた。それと同時に、生暖かい、酸っぱいものが彼の口に広がっていった。ホトトギスは、慌てて目を開けて、信じられない思いでセイラの顔を見た。


「呑み込んで」


 セイラの信じられない命令に、彼は我が耳を疑った。しかし、有無を言わせないセイラの命令に逆らいがたく、彼は口一杯の嘔吐物を死ぬような思いで呑み込んだ。それを呑み込み、ほっと安堵したとき、また彼女から同じ命令が下された。ホトトギスは、目に一杯に涙を浮かべて、洗面器に徹し続けた。


 確かに彼女からの贈り物ではあったが、セイラの人を人とも思わない暴挙に、ホトトギスは涙を浮かべて彼女に抗議する以外方策がなかった。しかし、嘔吐に苦しむセイラには、ホトトギスの無言の、しかし、懸命の抵抗何の効力も有さなかった。ホトトギスは、涙しながら、彼女の暴挙に絶え続けた。


 しかし、味覚は慣れであった。決して美味しいわけではないが、慣れてしまえばそれほど苦にはならなくなってきた。また、吐瀉物は大量にアルコールを有していたために、ホトトギスの味覚は次第次第に麻痺し、その肉体的な苦痛はさらに軽減された。愛しいセイラのものであると思えば、耐えられないことはなかった。彼は「これは神酒ネクターであると自らにつよく言い聞かせ、セイラの非道に耐えた。


 そうしているうちに、彼の心情に変化が現れてきた。


 恋人の非道に耐え続ける自分の姿が甘美なもののように思えてきた。多分に倒錯的であるが、彼は次第に自己陶酔してきた。やがて、恍惚とした表情を浮かべ、決して浪漫的ではない彼女からの贈り物を受け取り、それを敢然と飲み干していった。


 何時まで続いたのであろうか、彼は正気を取り戻した。彼は、セイラの具合が小康になったことを確かめてから、「セイラ、大丈夫」と尋ねた。だが、彼女は彼に応える気力もなく、憔悴した様子で寝台に身を横たえた。ホトトギスは、心配そうに彼女の顔を覗き込み、もう一度「セイラ、大丈夫」と尋ねた。今度は、セイラが頷き返してきた。彼はそれを見て安心に、水汲みに台所へと走り出した。


 セイラは胸が焼けるように苦しかった。しかし、アルコールを大量にホトトギスに排出したため、嘔吐感はなくなっていた。彼女は、力なく首だけ横にして、ホトトギスの後ろ姿を見た。


 自分の身を案じて、彼は、頼みもしないのに、水を汲みに行ってくれる。どんな我儘も文句一つ言わないで聞いてくれる。彼女は、自分が愛されていることを、改めて実感した。


 出会ったときは、彼のことを人語を喋る珍しい鳥だと思っていた。彼が魔族であることを知ると、汚物のように毛嫌いしていた。神に仕える神官として、それが当然のことであると思っていたからであるだが、彼と接しているうちに、何時しか、その心性に於て、魔族と人間では差がないことに気づいた。付き合うにつれ、その思いはますます確信めいてきた。そして、今では、自分が彼に片意地を張っていることが何とも滑稽なもののように思えてきた。そして、明日武運拙く落命することがあっても、彼と一緒なら後悔はしないだろうと思った。


「セイラ、飲んで」


 ホトトギスは、セイラの体を起こしながら、そう言った。そして、彼女の口にグラスを近づけ、彼女に水を飲ませた。セイラは、彼の汲んできた水を、美味しそうに飲み干した。


 彼自身それを馬鹿馬鹿しいと思いながら、セイラのその姿を見るだけで幸せであった。幸福感は、人夫々のものである。他人から見て、それがたわいのない事でも、当事者にとっては、それがかけ替えのないものであることはありえる。幸福感とは、極めて主観的なものであり、個人的なもの。彼は、セイラが美味しそうに水を飲んでいる姿を目にしながら、彼女にとり自分がかけがえのない唯一の存在であり、その意味に於ては、絶対な存在であることを確認した。嬉しかった。自分を頼る存在があるという歓びを噛み締めた。っして、彼女のためなら死ねると思った。この幸せを守るために、彼は改めて決心した。彼女を我が身に代えても守り抜こうと。





 侵入





 三人は再び風花の居城に現れた。その城の荘厳さ風花の圧倒的な力を思い知らされたセイラとクロウリー圧した。三人は、互いに言葉を交わすことなく、透明な壁を通過した光の中を進んで行く。音のない静寂な世界に、三人の立てる足音だけが響き渡った。


 セイラは、彼女とを並べるように歩くホトトギスの顔を覗き込んだ。何時にない真剣な彼の表情は、彼が如何なるときにも軽口を叩くだけに、事の困難さを如実に物語っていた。セイラは、この頼もしい相棒に、体を寄せた


 彼はそれに驚き、緊張した顔を微かに綻ばせて、彼女の顔をチラリと一瞥した。そして、再び顔を緊張させ、彼女の半歩ほど前を歩き始めた。


 三人にとり、苦い思い出のある扉が次第に見えてきた。三人は、顔をさらに緊張させて、その扉に向かい進んでいった。セイラの脳裏に、突然、カイに肩を斬りつけられた時のことが鮮明な映像になって蘇ってきた。それと同時に、彼女は自分達三人の勝利に対する危惧の念が浮かんできた。セイラは、一度顔を大きく横に振り、その思いを振り払った。戦いの際、恐怖が体の自由を奪うことを知っているからであった。そして、彼女は自分の頭を前行く彼の背中に預けた。誰よりも危険な戦いに臨むホトトギスを励ますために、そして、自らを鼓舞するために、そして何よりも「私を守って」とう思いから、彼の広い背中に頭を軽く寄りかからせた。


 彼が頷いたことが、彼の背中に微かに伝わる揺れから伝わってきた。彼女も、額を彼に密着させた状態で、こくりと小さく頷いた。それを確かめてから、ホトトギスは、二人の未来を切り開くために、静かに扉を開いた。


7章の後半 [セイラ3]

 快気祝い





 セイラは、事情を聞き出すために、クロウリーを質問責めにしていた。彼の嘘を一つも見逃さぬように、彼の目を正視した。クロウリーは、我が身に火の粉が降りかからぬように、慎重に言葉を選びながら全ての責任をホトトギスに擦りつけた。時に身振り手振りを交えながら、「あの人が全て悪いんです」と事あるごとにホトトギスを糾弾した。


 セイラとクロウリーでは、経験くぐってきた修羅場の数が違っていた。彼女の直感は彼を有罪と認定していたが、このための明確な証拠をつかむことができなかった。セイラは、一つ大きく溜め息を吐いてから、クロウリーを解放した。そして、彼女は視線を台所に向けた。


 二時間にも及ぶ、地獄の責め苦に匹敵する絶え間のない拷問を受けたと言うのに、人の形のホトトギスは、何処吹く風とばかりに、鼻歌交じりに三人の朝食を機嫌良く作っていた。複雑骨折したはずの右手で包丁を自在に操り、腱を切られた左手で鍋を持ち、手際良く料理を作ってゆく。しかし、その癖、顔の傷だけは治そうともしないで、時折、嫌味たらしくその顔で彼女に微笑みかけかけてさえいた。全然反省の色が見られない彼を見て、セイラはもう一度大きく嘆息した。


「セイラさんのお体の回復を祝して、乾杯しましょう」


 クロウリーの音頭で、セイラの快気祝いが始まった。


 セイラとしては、今すぐにでもカイの救出に向かいたかったのだが、彼女一人の力ではカイの居場所に辿り着くことも出来なかった。ホトトギスの協力を仰がないことにはどうしようもなかった。いつもなら、五分も可愛がってやれば、尻尾を振って彼女の言うことを聞くのだが、この日は、二時間にも渡る責め苦を受けても首を縦に振ろうとはしなかった。そこで、悪巧みに長けたクロウリーの助言を受け、ホトトギスの機嫌を取ることにしたのであった


 クロウリーの作戦は、朝から宴会を始め、アルコールをホトトギスにたらふく飲ませ、その酔いに乗じて、協力を取り付けると言うものであった。


 彼女は、その作戦に従い、ホトトギスの隣に座った。一方、ホトトギスはというと、今朝の容赦のない彼女の折檻に機嫌を害していたらしく、彼女が座ると、つんとそっぽを向いた。ホトトギスのその姿を目にしたセイラは少しやりすぎたかな一瞬反省したが、十日間に渡る辱しめを考えればまだ足りないくらいだと思い直した。と言っても、彼の協力が得られないことには何も始まらない。彼女は仕方なく、彼の頭をぞんざいに撫で始めた。そして、ホトトギスの綺麗な髪の毛は、瞬く間に、揉みくちゃにされてしまった


 いつもの彼ならば、これで機嫌を直すのだろうが、この日は些か勝手が違っていた。何と、あのホトトギスが彼女の手を煩わしげに頭を激しく振って払いのけたのである。そして、「ふん」と言って、再びそっ歩を向き始めた。


 セイラは、腸が煮え返る思いであった。しかし、ここは大人の度量を見せることにした。今まで試したことはないが、猫を可愛がるようにその青年の喉の下を優しく撫でてやった。


 彼女の予想通りに、ホトトギスが、ごろごろと喉を鳴らし、恍惚とした表情を浮かべ始めた。顔も次第次第に彼女の方に向き始めた。


 彼女は、ホトトギスの顔色を見て、話を持ちかけた。


「ねえ、連れてって」


 セイラは、彼の右腕に人差し指でしなを作り、彼の体に自分の体を預けて、精一杯、彼に色っぽく迫った。セイラは勝利を確信していた。しかし、その瞬間、ホトトギスが再び顔を背けた。


 彼女は、ホトトギスが意外にしぶといことに驚いた。色仕掛けが通用しないならと、今度はアルコール責めを始めた。


 機嫌を損ねていたもののホトトギスは、セイラが次々と注ぎ足すお酒を辞退でらしく、彼女に注がれるままに、次から次へと飲み干しっていった。そして、次第に次第に酩酊し、彼の機嫌も直り始めた。


「セイラも飲んで」


 今度は反対に彼女のグラスにお酒を注ぎ始めた。折角直したホトトギスの機嫌である。ここで彼の酒を断わり臍を曲げられたら、今までの努力がすべて水泡に帰してしまう。彼女は仕方なく杯を一気に飲み干した。


「セイラ、すごい。さあ、もう一杯」


 ホトトギスはセイラを煽て上げ次から次へとお酒を注ぎ足していった。ホトトギスの巧みな口車に乗せられて、セイラは次々と杯を飲み干していった。朝酒である、酔い回るのは速。セイラは次第に調子づき彼に管を巻き始めた。ホトトギスは、セイラの意外な一面に触れ、それに驚きつつも、女虎になったセイラの相手をし、彼女にお酒を勧め続けた。そして、セイラは酔い潰れて彼に体を預けて眠り始めた。


 人の姿のホトトギスは、彼の膝の上に頭を預けるセイラの寝顔を、何も言わず、優しい眼差しで、ただただ、じっと見守ったこの二人の仲睦まじい姿に目を細めながら、クロウリーが話しかけてきた


「これで、セイラさんも、今日明日は無茶なことを言わないでしょう」


 そう、ホトトギスは、機嫌などは損ねていなかった。セイラが満足に動けるようになってから、いくらも日数が経過していな。風花とカイとの戦いが不可避のものであるにしても、いくらなんでも今はその時ではない。最低でも、あた二、三日は休養が必要であった。それ故の一芝居であった。


 クロウリーは、そう言い終えると、気を利かして席を立ち上がった。二人の愛の巣から出ていった。


 ホトトギスはいったんセイラから目を離し、クロウリーの後ろ姿を見送った。そして、セイラを軽がると抱き上げ、彼女の体を寝台の上に静かに下ろした。





 介抱





 激しい嘔吐感を催し、彼女は昼過ぎに目を覚ました。にたにたと笑うホトトギスの顔が彼女の目に入った。『またしても、してやられた。』その思いとともに、激しい吐き気が彼女を襲った。万事心得ているといったとばかりにホトトギスが差し出した洗面器を受け取ると、彼に背中を擦られながら、一気に戻した。彼女はそれを何度も繰り返した後、背に回され立て彼の右手に体を預け、ぐったりと体を寝台に横たえた。


 悪酔いと何度も繰り返した嘔吐ですっかり体力を使い果たし、セイラホトトギスを怒る気力すら残っていなかった。そのまま、ぼんやりと天井を眺めていると、ホトトギスが台所からお粥を携えてやって来た。


「セイラ、お粥だよ」


 彼女は何も食べる気がしなかった。彼女は寝たままの状態で顔を横に振って、食欲がない事を彼に知らせた。


「食べないと、駄目だよ。これから、あの女をやっつけに行くんでしょう」


 何処にとは言わなかった。しかし、行き先は分かっていた。


「食べたら、連れて行くんだろうな」


 彼女は、そう言うと、体をゆっくりと起き上がらせて、彼の顔を正視した。ホトトギスはいつも通りの笑顔でこくりと頷いた。


「さあ、食べて」


 まるで重病人扱いして、彼女口元へスプーンでお粥を運んでくるのが彼女の目に入ったセイラは、一瞬、それを断ろうと思ったが、素直に彼に従うことにした。彼はそれだけのことで自らの命を彼女に委ねようと言うのだ。彼女自身のわずかばかりの見栄のために、これを拒絶することは出来なかった。彼女は一口また一口とお粥を口にした。食べているうちに、彼の献身的な看病のことが自然と思い起こされた。


 何故に、ホトトギスは、ここまで優しくしてくれるのだろうか、セイラにはわからなかった。容姿には自信があった。しかし、世の中には自分より美しい女性は幾らでもいるのだ。そして、自分はこれまで、彼のために何かをしたことがあるだろうか。彼に愛される資格が自分にあるのだろうかどうして、どうしてこんな自分をホトトギスは愛してくれるのだろうか、理由が、どうしても、わからなかった


「どうして


 彼がお粥を口に運ぶ暇に彼女は尋ねた。ホトトギスが首を少し傾けしばらく考える振りをした。そして、少しおどけた口調で「何でかな、僕にも分からないや」と答えた。


 ホトトギスにも、どうして自分がセイラに心魅かれたのか、分からなかった。しかし、そんなことは彼にとり重要なことではなかった。いま、彼女が自分の目の前に存在し、この彼女を愛することこそ大切なように思われた。ただ、彼の側にいてくれれば、ただそれだけで十分なように感じられたそして、この一瞬のために彼は自分の全てを投げ出したとしても惜しくなかった。不死の彼にとり、この言葉は言葉遊びに過ぎないのかもしれないが、セイラのためなら自身のさえ捧げるつもりでいた。


「どうして、昨日、何もしなかったの」


 彼女は昨夜のことを彼に尋ねた。昨夜、彼が望んでいたなら、彼女の何の躊躇いもなく彼に体を委ねていたであろう。彼を愛する者として、何の躊躇もなく彼の愛に応えていたように思われたそして、記憶を取り戻した今、その事を後悔しなかったであろう。だから、その理由を彼に尋ねたかった。


「えっ、しても良かったの」


 ホトトギスは、彼女の信じられない問いかけの言葉を耳にし、驚きの声を上げた。婚約者と嘯いただけで、今朝、地獄の責め苦に匹敵する折檻を二時間も受け続けたのだ。そんなことをしていたら、今頃、どんな酷い目に遭わされるか、わかったものではない。


 また、彼女に手を出さなかったのは、人間とは違い、いわゆる性欲というものを彼が持ち合わせていないためであった。もちろん、ホトトギスセイラと夫婦の契りを交わすことを望んでいたが、それは心的な、霊性的な次元であり、肉体的な、形而下的なものではなかった。肉体的なものがそれに付随すれば、なおのこと結構であったが、その事自体は彼にとりそれ程重要な意味を持たなかった。昨夜彼女に抱き締められただけで、彼の魂の安息は得られたし、それで十分幸せであったのだ。それ以上のこと、望むつもりはなかった。


「違うわよ、誤解しないで」


 セイラは、顔を赤らめ、即座に彼の言葉を否定した。ホトトギスは「でしょ、でしょ」と言って、その後も幸せそうにでセイラの食事の世話をし続けた。


 彼女は、その姿を見ている内に、彼への感謝の念から涙が自然と浮かんできた。


「そんなに、僕の料理がおいしかった。だったら、落とすのは、ではなく、頬っぺたの方が嬉しいな、僕


 こう言うと、ホトトギスが頭を彼女に突き出し、「良い子、良い子」の催促をした。彼女は、涙を袖で乱暴に拭い、いつもより優しく彼の頭を撫で始めた


七章 [セイラ3]

七章





 夢の後





 暖かい温もりの中、ホトトギスはゆっくりと目を覚ました。目を閉じたまま、頬ずりを何度も繰り返し、セイラの胸の柔らかい感触を確かめた。それから、ゆっくりと目を開いた。セイラの豊かな双丘に顔を埋めた状態で、その間隙から上目遣いに彼女の顔を見上げた。


 そこには、笑みを湛えたセイラの寝顔があった。毎日のように見続けてきたのに、この日のセイラの寝顔はいつもと違って見えた。これまで、鳥形のホトトギスは彼女の顔を見上げるように見ていたが、これまでとは違った角度から見ていることがその一因であった。しかし、それほど単純な理由からではなかった。ホトトギスは、かつて、これほどまで彼女の存在を近く感じたことがなかった。


 ―――もちろん、物理的な距離のことではない。心理的な意味に於てである。―――


 彼は、彼女の存在をこれほど近く感じたことがなかった。互いに体を隔てているが、同一感、親近感といったものをこれまで以上に強く感じていた。そして、自身が秘かに抱き続けてきた、相容れない魔族と人間という存在の垣根が消滅しているように感じられた。ホトトギスはセイラのことを「愛しい」と強く思った。もっと強く同一感を感じ取りたいと切望した。だから、彼女の体をぎゅっと強く抱き締めた。彼女の体温が布越しに伝わってくるセイラの心臓の鼓動が伝わくるホトトギスはギュッとさらに強く彼女の体を抱き締めた。そしてセイラが目を覚ました。


 目を覚ましたセイラは、自分の胸に埋もれているホトトギスの頭を見て、「きゃっ」と悲鳴を上げ、ホトトギスをおもいっきり突き飛ばした。手加減なしの一撃で彼の体が宙に浮かんだ。そして、鈍い音を立てて床に衝突した。


 人の形をしたホトトギスは、何が起きたのか理解できず、当惑した顔をして彼女を見上げていた。やがて痛みを憶え始めた。床に衝突した際、特に強く打った右肘が激しく痛み出した。ホトトギスはその痛みを堪えつつ右腕で体を起こそうとしたが、その時、さらに激しい痛みが彼を襲った。ホトトギスは「あれ、何か変だな」と言って、自分の右腕を見た。右腕があらぬ方向に曲がっていた。そして、ホトトギスは、条件反射的に、嬉々とした声でセイラに向かってこう話しかけた。


「見て見て、セイラ。腕折れちゃったよ、僕」


 ホトトギスはそう言うと、腕が折れたことが自慢であるかのように、折れ曲がった右腕を彼女に差し出した。そして、左手一本で軽々と体を起こすと喜びで尻尾を盛んにふる子犬のように、嬉々とした表情セイラに近づいていった。これは、何時しか身に付いてしまったホトトギスの習慣である。一朝一夕で直るものではなかった


 セイラは信じられない光景を目にし、彼が人間でないことを直観した。それと同時に、ここ数日の幸せな生活が、突如、汚らわしい悪夢のように感じられたそして、折れ曲がった右腕を差し出しながら、あたかも小犬が尻尾を振りながら母犬に近寄るよう嬉々とした様子で近寄ってきたホトトギスから逃れるため、「嫌っ」と絶叫すると同時にホトトギスを両手で突き飛ばした。その予想外の一撃をくらい、彼の体が遙か後方まで吹き飛ばされた。そして、この奇跡を引き起こした自分の両手をじっと見た。


「この感じ、憶えているわ」


 一方、ホトトギスは、壁にしたたか背中を打ち付けられたが、このことをさして気にする様子もなく、すぐさま起き上がると再び彼女に迫っていった。


 ホトトギス予想通り、いつの間にかに寝台から立ち上がっていたセイラはの容赦のない前蹴りが彼の鳩尾に正確にヒットした。「げふっ」と異の内容液と肺の空気を一気に吐き出しながら、彼の体が後ろへと吹き飛んでいった。


そう、そう。セイラは、やはり、こうじゃなくちゃ


 彼は、壁に衝突するまでの僅かな時間、その喜びに打ち震えた。そして、彼の体は狭い室内の壁に衝突した。その激しい衝撃で五臓六腑が口から飛び出すようにホトトギスには感じられた。ホトトギスはこの感触に狂喜したそして、態勢が整うとすぐに、「セイラ、愛しているよ」と叫びながら彼女に突進した。今度は顔面への正拳突きであったホトトギスの脳が激しく揺れた。その揺れで、眼前が眩み、意識がスッと遠のいていった。そして、彼はその場に膝を屈し力なく崩れ去った。


 全て以前と同じ感覚であった。彼は、セイラが元の状態に戻ったことを知り、地面にうつ伏せになりながら、セイラに聞こえない小さな声で「良かった」と呟いたしかし、待てど暮らせど、セイラの止めの一撃が繰り出さないことに訝りそれならばと立ち上がろうとした。


 一方、セイラの方はと言うと、自らの肉体にすさまじい力が秘められていることに驚いているようすであった。しかし、混乱している頭とは反対に彼女の体が勝手に反応していた。手が、足が勝手に動くのである。まるで今まで身に付けてきた技を確認するかのように、彼女の健康な手足がセイラの意志とは関係なしに動き出した。


 ホトトギスは、血反吐を吐き、その眉目秀麗な顔を見にくく腫れ上がらせ、地面に何度を打ち付けられ、その都度、そこで激しくのたうち回った。既に満身創痍の状態であったが、ホトトギスはまだまだ満足していなかった。セイラの快気祝いとばかり、彼女に何度も挑み続けた。何度打ちのめされても再び立ち上がり、セイラに迫った


 こうしたことを何度繰り返したのであろうか。


 ふと、彼の頭を微かな疑念が過った。そこで、床に腹ばいに倒れていた彼は、頭を少しだけ上げ、恐る恐る彼女の顔色を窺い見た。そこには、これまで目にした事のない悪鬼羅刹の様なセイラの怒り顔があった。


『セイラに殺されるかもしれない』


 ホトトギスの頭にこの思いが浮かんだ瞬間、四つ足を着いた彼の背中に「止めの一撃」である彼女の右の”踵(かかと)落し”が繰り出された。五臓六腑が口からすべて飛び出しそうな感覚。これまでに何度も経験してきたが、これだけは決して慣れることのできない感覚であった。ホトトギスは声にならない声で恐る恐るセイラにこう尋ねかけた


「ひょっとして、記憶が戻った」


 セイラはゆっくりと頷いた。彼女は、ホトトギスに拳を振り上げる度、蹴りを繰り出す度に、記憶を一つ一つ取り戻していたのである。そして、ホトトギスの鮮血を見て、全ての記憶を取り戻した。彼女はホトトギスに尋ねた。


「誰があんたの婚約者


 ホトトギスは、血だらけの顔に笑みを浮かべて、唯一自由になる左手で彼女を指差した。その瞬間、セイラがその左腕を思いっきり蹴飛ばした。ぶちっという音を立てて、左肘の靭帯が切れた。


「そう、私なの。それで、いつ婚約したの」


 彼女はそう言ってから、複雑骨折し力なく垂れ下がっているホトトギスの右腕を左足でちょんと小突いた。鈍い痛みがホトトギスの右腕に走った。彼は、目に一杯の涙を湛え、彼女に自分の窮状を訴えた。


「えっ、聞こえないわよ」


 セイラは膝を屈した姿勢で、左手の人差し指でちょんちょんと彼の右腕を突いたそして、ホトトギスが返答しようとすると、彼の右手を力強く握った。





 絶えることのないホトトギスの悲鳴が森閑とした森に響き渡った。この聞き慣れた悲鳴でクロウリーは目を覚ました。最初のうちは、「好きですね」と二人の仲の良さに今更ながら呆れ果てて聞いていたが、ホトトギスの尋常ならざる悲鳴を聞き、一抹の不安を感じ始めた。彼は、着替えもそこそこにして、二人の家に急いだ。そして、すっかり阿鼻叫喚地獄化した二人の愛の巣を目にした。


 鬼気迫る面持ちで、セイラが息も絶え絶えなホトトギスをいたぶっていた。ホトトギスの全身から流れ出した血で床は血の海と化していた。噎せ返る程に鉄臭い血の匂いが室内に充満し、彼の鼻腔を強く刺激した。魔術師である彼は、これまで様々な惨劇の舞台を目にしてきたが、この凄惨な現場を見ると、それらがすべて子供だましのように思えた。


 この噎せ返るような濃密な血の匂いで嘔吐感を憶えた、クロウリーは、それを懸命に堪え、セイラの無体を止めさせるために声をかけた。


「それ以上なさると、その方が死んでしまいますよ


 ホトトギスは、ようやく助けが来たことを知ると、頭をゆっくりと擡げて「そうだ、そうだ」とセイラに力弱く頷いてみせた。しかし、このわざとらしい彼のその行為が、また、セイラの逆鱗を撫でた。そして、彼は、死ねとばかりに彼女に頭を踏みつけられその右足で床に何度も頭を擦り付けられた。そして、そのままの姿勢で、クロウリーを横目で睨み付け、こう言い放った。


「こいつが死ぬわけないじゃない」


 今は人の姿をしているが、ホトトギスは魔族であった。これくらいのことで死ぬわけがない。彼が真実痛みを感じているかどうかさえ、疑問であった。セイラは、彼との一年以上の付き合いで、それくらいのことは知っていた。だから、もう一度彼の頭を床に丁寧に擦り付けた。


「セイラさん、ひょっとして記憶が戻られたのですか」


 セイラの余裕に満ちた態度から、彼女が記憶を取り戻したことを知り、クロウリーは、恐る恐る、彼女にこう尋ねた。そして、セイラがおもむろに頷くのを見て、恐れていた事態が訪れたことを知った。


 クロウリーは、三人の幸せのために彼女の記憶を封印したままにすることに同意していた。ホトトギスに何度も人間はひょんなことから失われた記憶を取り戻すことがあります」と忠告してきたのである。彼女を余り刺激してはいけないと口を酸っぱくしてきたのである。クロウリーは、ホトトギスの不注意のために、三人の幸せの時があっけなく去ってしまったことを知り、心の中で嘆息した。そして、クロウリーは、自分に禍が降りかからないように、共犯者であるホトトギスを裏切ることにした。


「記憶が戻ったのですか、それは良かったですね」


 クロウリーは、セイラの記憶が戻ったことを喜んだ振りをして、床に転がっている魔族の青年を見た。そして、「私はこの方に脅かされていたんです」と、全ての罪を彼に押しつけた。


 ホトトギスは、抗弁するために顔を擡げようとしたが、その瞬間、セイラに頭を踏みつけられた。


「お前って奴は・・・


 セイラはさらに入念に彼の頭を擦り付け始めた。


六章の残り部分 [セイラ3]

 朝の風景





 セイラの記憶喪失は依然そのままの状態であったが、ホトトギスの日夜を問わぬ献身的な看護と、生命力に溢れるセイラの若い頑強な肉体のお陰で、セイラは驚異的な回復を見せた。一週間もすると、セイラはもとのように体を自由に動かすことが出来るようになった。


 セイラは、目を覚ますと早速ホトトギスが汲み置きしておいた水瓶に向かい、手桶でその水を掬った。その水で洗顔を済まし、そこに映った自らの姿を見ながら、寝乱れた髪をそっと整えた。何度も何度も櫛で丁寧に梳いた。いつしか目を覚ましたホトトギスがそっと忍び寄り、後ろから彼女の首に手を回した。


「おはよう、セイラ」


 少し甘えたようなホトトギスの挨拶に、彼女も「おはよう」と答え、手を休めることなく髪を梳き続けた。彼女が髪を念入りに手入れするのは、何も自分のためではなく、昼夜を問わず懸命に看病してくれたホトトギスへの感謝の念からであった。


 ホトトギスはというと以前のようにセイラに構ってもらえず、物足りなさを感じならが椅子に腰を下ろし、彼女のその姿を眺め始めた。ホトトギスは、椅子に座ったまま、整髪を終え掃除を始めたセイラの姿を優しい眼差しで見守った


 記憶喪失以前のセイラは、ホトトギスに対してかなり凶暴であり、事あるごとに暴力を振るっていた。しかし、記憶喪失後は打って変わって従順でおしとやかな女性へと変貌していた。いかにも女性然としたセイラは、かわいらしく好ましい女性であったが、存在感が希薄なのも事実であった。ホトトギスは快活であった頃のセイラを懐かしみ始めた


 セイラの健康的なお尻が椅子に座っているホトトギスの目の前を通った。ホトトギスは、悪戯心を起こし、ご愛嬌とばかりに彼女のお尻を軽く撫で上げた。彼は、セイラがかわいらしい悲鳴を上げるものと予想していたのだが、その予想に反し、セイラの右の掌が飛んできた。その「ばしっ」と乾いた音が狭い室内に響き渡った。ホトトギスは、鳩が豆鉄砲を食ったような表情をして、セイラの顔をじっと見上げた。


 それは条件反射であった。一年以上に渡るホトトギスの破廉恥な愛情表現をかわす手段として、また、その報復手段として、いつしか、彼女の身に付けたものであった。記憶は失っていたが、体はそのことをしっかりと憶えてい


 しかし、記憶を失っているセイラは自身のとった今の行動に当惑した


 彼女は、見詰めながら、どうして自分がそのような乱暴なことをしたのか理解できず、掌の形がはっきりと残るホトトギスの左頬を、ただ呆然と見つめ続けた


 一方、ホトトギスの方も条件反射で大きな目に一杯の涙を浮かべて、彼女の顔を見つめていた。そして、習慣で「セイラ、御免なさい」と深々と頭を下げてしまった。


 ホトトギスの一連のその行動に、セイラの母性本能が大いに触発された。彼女は、頬を押さえている彼の右手をゆっくりと下ろしてから、彼の頭を豊かな胸の方にぎゅっと抱き寄せ、頭を何度も優しく撫でながら「痛かった」と猫なで声で彼の機嫌を取り始めた。


 ホトトギスは「えへへへ」と少し野卑た笑い声を上げながら、腫れ上がった頬を何度も上下させて彼女の胸の柔らかい感触を楽しんだ。セイラの方も、そのくすぐったい感触に小さな笑い声を上げながら、小さな子供をあやすように「本当に、悪戯っ子なんだから」と言いながら、彼の髪を何度も丁寧に掻き上げていた。


「おはようございます」


 クロウリーはいつものように朝の挨拶をして二人の愛の巣に入ってきた。そして、二人の遊び戯れる姿を見て、我が目を疑った。二人が互いに魅かれ合っていたことは知っていたが、一週間でここまで二人の仲が進展すると想像できなかったからである何しろ、セイラが記憶を失う以前この二人顔を合わせれば、必ずと言って良いほど喧嘩をしそして、ホトトギスはセイラから一方的に暴力を振るわれ続けていたのだからしかも、それはますます容赦のないものへ、執拗なものへと変貌していた。それがセイラの屈折した愛情表現であること知っていたが、それがこのように劇的に変化するとは想像できなかった。そのため、クロウリーは呆然と二人の痴態を眺め続けた。


 ホトトギスは、セイラとの楽しいじゃれ合いに時間の立のも忘れていた。没頭する余り、クロウリーの出現に気がつかなかったうのは嘘で、気づいてはいたが、すぐに立ち去るだろうと思い、クロウリーを放置していた。しかし、いつまで経ってもクロウリーが一向に立ち去ろうとはしなかった。そこで、剣呑な目つきで「出て行け」と言わんばかりに睨み付けた。


 殺意すら秘めたその鋭い眼光を目にしたクロウリーがその場を立ち去ろうとしたときその微かな物音に気づき、セイラは音のした方向を見た。そこにクロウリーがいるのを見て、「きゃ~」と大きな悲鳴を上げた。そして、恥ずかしさから顔を真っ赤に染め上げ、それまで胸に抱え込んでいたホトトギスの頭を急いで離した恥ずかしさのあまりセイラはどこかに身を隠したかったが、広い一間しかないこの家では身を隠す場所などなかった。彼女は、仕方なく、椅子に座るホトトギスの影へと身を隠した。


 新婚ほやほやの新妻のようなセイラの慎ましやかな行動に、クロウリーの頬は自然と綻んだ。彼は、二人にもう一度「お早ようございます」と挨拶をし直し、何も見なかったように家の中に入っていった。


 一方、ホトトギスの方は、この招かれざる客を八つ裂きにでもしたい気分であったが、不機嫌そうに椅子から立ち上がると、朝食の準備に取りかかった。セイラもその彼の後を追い、調理場へと向かった。





 二人だけの夜





 その夜、ホトトギスは何やら意を決した真剣な表情をして、セイラの寝台に忍び込む機会を窺っていた。純粋に彼女の傍らで添い寝をするためであ。淡い期待は抱いていたが、疚しい気持ちは微塵も有していなかったそして、彼はセイラが眠るのを待って、いそいそと彼女の寝台に近づいていった。


 ホトトギスはそっと彼女の寝台に潜り込もうとした。だが、セイラは眠ってはいなかった。セイラが彼の方に顔を向けると、ホトトギス条件反射的に「御免なさい」と素直に謝った。何度も何度も彼女に謝った。そして、寝台から下り、目に悔悛の涙を浮かべ、何度も額づき、自らの非礼を彼女に詫びようとした。


 セイラは彼の生真面目の様子に顔を綻ばせ、しばらくその様子を楽しんだ。もとより、彼女にはホトトギスを責める気持ちはなかった。それどころか、彼の献身的な看護を心から感謝し、彼の愛情に応えようと考えてさえいた。自分が彼の婚約者であるか否かにかかわらず、彼女はこの一週間でホトトギスをすっかり気に入っていた。その愛に報いたいと考えていたのだ。だから、寝台の下で土下座する彼を寝台の中に迎え入れようとした。


 ホトトギスは、予期せぬ展開に当惑しながら、土下座をいったん中止し、不安げに彼女の顔を覗き込んだ。そして、嬉しそうに寝台の中に潜り込んだ。


 寝台に潜り込んだ彼は、何も言わずセイラの顔を正視した。慈母のように笑みを満々と湛えるセイラの顔がそこにあった。ホトトギスの心の中にわずかにあった邪な気持ちは、一遍に消え去った。彼は顔を彼女の豊かな胸に寄せた。その柔らかい、暖かな感触の中、彼は魔法にかかったかのように微睡(まどろ9んでいった。そして、セイラもやがて愛し子を抱き締める母親のように穏やかな表情をして眠り始めた。そして、月の光は、何も言わず、この二人を優しく包み込んだ


六章の続き [セイラ3]

 看病





 樫の棍棒による一撃は、その衝撃の大部分をカイのしなやかな筋肉に吸収され、深刻な被害を与えることはなかった。そうは言っても、カイの二の腕は紫色に変色し、少し腫れ上がっていた。


 風花は、カイの負傷の痕を見て、大事に至らなかったことを喜び、同時に安堵し、安心のあまり「ふっ」と息を漏らしたそして、熱を多少帯びているカイの二の腕に優しく口付けしてから、心配そうに顔を覗き込みながら、「カイ、痛くない」と尋ねた。


 カイは元気な男の子である。男としてのプライドもあった。痛くても、女性に痛いと言うわけにはいかなかった。涙が目から溢れそうな痛みを堪えつつ、彼女に「大丈夫」であることを示すために、笑いかけた。


 だが、そんなカイの空元気が風花に通用するはずがなかった。カイがうっすらと涙ぐみながら笑いかける姿を見ていると、心の奥底から自然と笑いが湧き上がってきた。彼女はそれを堪えながら「良かったわね」と笑いかけ、彼の体を両腕の上から少しだけ強く抱きしめた。すると、今まで堪えてきたカイの涙が瞳から溢れ出した


 それを目にし、ふわりとした笑みを浮かべて「どうしたのカイ。涙が出ているわよ」と意地悪くを尋ねた。カイが返答に窮しているのを見つめていると、更なる悪戯を思いついた。彼女はしばらく考える振りをしてから、分かったわ。抱き締められて嬉しかったのね」と言って、カイをもう一度抱き締めようとした。


 カイはそれまで風花の膝の上に座っていたが、風花のその言葉を耳にすると、彼女の膝からぴょんと飛び降りた。そして、「風花の意地悪」と言うと、彼女に背を向け走り出した。


 風花は、カイの子供染みた行動を見て、彼の後を追いかけ始めた。カイの行き先は分かってい。彼女はカイの居場所を目指しゆっくりと歩み寄った。二人の寝室に入ると、彼女に背を向けるようにし、カイが寝台の上に拗ねた様子で座っていた。風花は、気配を完全に消し、カイに忍び寄った。そして、背後から彼の首に手を回した。


「どうしたの、カイ」


 彼の耳に静かに囁いてから、カイの、十三歳としては若干細い首に何度も優しく口づけした。カイがくすぐったそうな嬌声を上げ始めると、彼女は真剣な眼差しをしてカイの右腕に目を向けた。空間から小さな氷を取り出し、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、彼の火照った右の二の腕にそれをピタリとつけた。


 その冷たさに驚き、カイは一瞬ぴくりと体を強ばらせたが、やがて、氷のひんやりとした涼感に恍惚とした表情を浮かべ始めた。カイの二の腕の上の氷が体温で少しずつ溶け始め、溶けた水が彼の腕を伝わりながら、ぽたぽたとシーツに落ちていった。彼女は、それを見ると、いったん氷をカイの二の腕から離し、カイの腕に残った水の軌跡を愛おしむように舌で拭き取った。それから、カイに尋ねた。


「気持ち良い、カイ」





 カイと風花の牧歌的な療養生活とは異なり、セイラとホトトギスのそれはなり危険を孕んだものであった。


 セイラは、大量の出血をし、朦朧とした意識の中で目を覚ました。腹部に軽い圧迫感を憶え、けだるそうに首だけを持ち上げながら、腹部に目を向けた。そこには、彼女の看病に疲れ果てた、人の形をしたホトトギスが彼女のお腹の当たりにもたれかかるように眠っていた。彼女は反射反応的に彼を振り払おうとしたが、体に力が入らなかった。


私、どうしたのかしら


 彼女は自分の体の異変を訝しんだ。朦朧とした意識の中で、その原因を探ろうとしたが、何も思い出せなかった。


 ホトトギスが彼女の容態の変化に気がつき、目を覚ました。ゆっくりと体を起こし、彼女の方に目を向けると、セイラがぼんやりと天井を眺めながら何かを考えていた。彼はそれを見て、ここ数日昏々と眠り続けた彼女の意識が回復したことを知り安堵の息を漏らすと、「おはよう」と彼女に挨拶した。


 セイラは、彼の顔を不審そうに眺めて、「あなたは誰」と尋ねた。ホトトギスは、彼女の予想外の質問に目を白黒させたあと、笑いながら「冗談止めてよ、セイラ」と言った。


「私、セイラって言うの」


 セイラの当惑した表情を見て、ホトトギスは彼女のに何かが起こった事を悟った。しかし、人間でない彼には、それが何であるのかわからず狼狽した。セイラに狼狽したことを気取らないように、体裁を取り繕い、こくりと頷き、彼女がセイラであることを知らせた。


「そう、私はセイラなのね」


 セイラは、自分に言い聞かせるように、そう呟いた。そして、彼女は「あなたは、誰。どうして、私はここにいるの」と尋ねた。


 ホトトギスはセイラにどう答えるべきか考え始めた。


 理由は分からなかったが、セイラが記憶を失っているのは明らかであった。彼女を失わないために、彼女にカイ奪還を諦めさせることが肝要であった。計らも、彼女は自分に科せられた任務を忘れ去ってくれているだから、何も正直に彼女に答える必要はなかった。それこそ、彼女のためであり、同時に自分のためであ。しかし、・・・・・。彼は思い悩んだ。


 セイラが考え込んだ彼の姿を不思議そうに眺めて、「どうしたの、何処か具合でも悪いの」と尋ねてきた。その声で我に返りったホトトギスは「いや、何処も悪くない」とお茶を濁し朝食の準備のために立ち上がった。


 セイラは、朝食を作る彼の後ろ姿をぼんやりと眺めていたが、自分が指輪をしていることに気づき、重そうに左手を引き寄せ、掌をさらに翳して薬指に通している指輪をじっと見つめた。


「私、結婚しているんだわ。でも、誰と」


 彼女は、指輪から視線を再び朝食を作っているホトトギスに移し、「あの人かしら」と自問した。記憶を失っている彼女には、答えられるはずがなかった。彼女は、手掛かりを探すために、室内を見回した。寝台が二つ、二人分の食器、さほど多くない家具。彼女の予想を肯定する材料ばかりであった。そして何よりも、自分のために献身的に世話をしてくれるホトトギスが、その証明のように思われた。その後、セイラは彼の後ろ姿だけを見つめ続けた。


「セイラ、ご飯だよ」


 ホトトギスは、満面の笑みを浮かべて、朝食を携えて彼女の寝台に近寄ってきた。セイラは、首を力なく横にして、彼の左手をじっと見た。彼の左手には、彼女の指輪と良く似た指輪があった。彼女はそれを見て確信した。


「私はあの人の妻なんだわ」


 セイラは、ホトトギスが寝台の近くの椅子に座ると、彼の目を正視しながら「あなたは、私の旦那様なの」と尋ねた。


 彼は、彼女の予想外の質問に「えっ」と当惑した。しばらく考えた後、顔を綻ばせながら、「婚約者だ」と答えた。偽りとは言え、二人は結婚式を上げ、互いに変わらぬ愛と忠誠を誓ったのだから、夫と答えて悪い理由はなかったが、彼はそう答えた。


「そうなの」


 セイラは、少し落胆した様子で、そう呟いた。そんな彼女を励ますかのように、ホトトギスが「ああ~ん」してと言いながら、彼女の口元に食事を運んできた。体の自由がきかないのだから、それはしょうがないことであったが、彼女は羞恥で顔を赤くしてそっと俯いた。


「セイラは本当に我がままなんだから、僕困っちゃうよ。今さら、照れることはないでしょう。セイラが眠っている間・・・


 彼は、ぷんぷんと怒った様子で、そこまで言って一息入れた。視線を彼女の顔から下腹部に移して、そこをじっと見てから、彼女に笑いかけた。


「お世話したんだから」


 ホトトギスは、日夜を問わず、彼女に献身的に尽くしてきた。彼女が昏睡している間、彼女に口移しで水を飲ませ、少しでも彼女の栄養になればと、果実を絞り、その果汁を口移しで与え続けた。


そして、美形とはいえ、セイラも人間であり、排泄もする。彼は嫌がりもせず、彼女の下の世話も立派にこなしてきたのだ。とは言え、彼は魔族であり、人の使えない力を持ってい。セイラの人権を重んじて、自らの手で直接はせず、魔の力を用いて彼女の下の世話をしてきた。ホトトギスは、自らの手でしたかったが、何度もその誘惑に負けそうになったが、克己して魔の力を用いてきた。


 そうした事情を知らないセイラは、顔のみならず耳まで盛大に紅潮させた。そして、そこまで迷惑をかけたのならと自分に言い聞かせて、セイラは彼に顔を向け食事の接待を受け始めた。


 セイラは、ホトトギスが嬉々とした表情で食事の世話をしているのを眺め続けた。少々軽薄な感はあったが、それを補って余りある容貌であった。軽薄さも、思慮の欠如と言うよりは、彼の童心がその要因なのだろう。そして、何よりも献身する姿勢を見て、彼女が彼を愛していたことを確信した。また、こんなに美しい彼を愛さない女がいるとは思えなかった。セイラはささやかな女性の幸せを感じた。


 セイラは、食事を済ませると、起き上がろうとした。僅かに起こしたが思うように力が入らなかった。後片づけのために立ち上がった彼、その気配を背中で察知し、振り返って「セイラはまだ本調子じゃないんだから、寝てなきゃ駄目だよ」とたしなめた彼女、小さな子供のように「御免なさい」と素直に謝ると、静かに体を横たえた。そして、顔を横にしたまま、彼の後ろ姿をぼんやりと眺め始めた。傷ついた体が睡眠を欲したのであろう、彼女は彼の後ろ姿を見ているうちにうつらうつらと微睡み始めた。





 後片づけを終えた彼は、しばらく微睡む姿を楽しんだ後、「お休み」と彼女に声をかけてから、彼女の額に軽くキスをした。そして、安心したように、小川へと洗濯をしに出かけた。


 ホトトギスが洗濯から帰ってみると、いつの間にかに目を覚ましたセイラが起き上がろうとしていた。彼は、済ましたばかりの洗濯物を投げ捨てて、彼女の下に駆け寄った。彼女の体をしっかりと支えて、「駄目だよ、セイラ」と軽く叱った


 セイラは、「御免なさい」と謝りながら、彼の右手に体を預けて、静かに体を横にした。


「セイラは、まだ本調子じゃないんだから、無理したら駄目だからね」


 ホトトギスは、セイラが口の辺りまで夜具を引き上げ、大人しくしているのを見てから、もう一度そう言った。そして、彼女が起き上がろうとした理由を尋ねた。


 彼女は、顔を真っ赤にして、彼から視線を逸らした。ホトトギスは、彼女の不審な行動をいぶかりながら、もう一度その理由を尋ねた。セイラは、彼に口で答える代わりに、をもぞもぞと動かした。ホトトギスは、ますます当惑し彼女の小刻みに動く体をしばらく見ていたが、何か思いつたらしく、わざとらしく手をぽんと叩きいた。そして、「何だ、そうならそうと最初から言ってくれればいいのに」と言った後、セイラにくるりと背を向けた。そして、いずこから溲瓶(しびん)と「おまる」を取り出し、再び彼女の方に振り返った。


「どっちかな、セイラ」


 ホトトギスは、無邪気な笑みを受けべて、溲瓶とお丸を彼女の方に差し出した。セイラは、俯きかげんであったが、視線でそれを知らせた。彼は、セイラの視線の先を追いかけてから、それを差し出した。


「あのう、出て行って貰えませんか」


 セイラは、ホトトギスが彼女の用をたすのを今か今かと楽しみにしている顔を見て、恥ずかしそうにそう言った。ホトトギスは、大きなため息をついてから未練がましく彼女の方を何度も振り返りつつ外へ出ていった。


 ホトトギス、気を利かし、十分ほどしてから、「もう入ってもいい」と彼女に外から声をかけた。セイラからは何の返事もなかった。「駄目ならば制止の声がかかるはずだ自分に都合の良いふうに考え、嬉しそうに屋内に入ってきた。急ぎ足で彼女の寝台に近寄り、陶器製の容器を受け取った。そして、わくわくした表情で彼女に尋ねた。


「中、見ても良い」


 セイラの回復の具合を知る上で、是非とも調べる必要があった。しかし、ホトトギスの切なる願いはセイラに即座に拒否されてしまった。


「駄目」


 セイラは、注血で顔を真っ赤にし、顔を俯かせて、消え入りそうな声でそう言った。


 ホトトギスは、少し拗ねた様子で「ちぇっ」と舌打ちし、それを処分するために、いそいそと外に出ていった。


 外に出てしまえば、こちらのものであった。ホトトギスは、外に出るとすぐに、わくわくしながら、しかし、恐る恐る便器の蓋を取り除いた。そして、じっと内容物を鑑賞した。息をすることも忘れ、鑑賞し続けた。セイラのものは、彼だけのものであった。他の如何なる存在にも指一本触れさせるつもりはなかった。そこで。ホトトギスは、それをおまるごと消滅させると、何事もなかったように家の中に入っていった。


 その後二人だけのままごとのような時間が経過したが、昼過ぎになり、クロウリーが昼食とセイラのお見舞いのためにやって来た。記憶を失っているセイラは、見も知らぬ人間の突然の来訪に驚き、寝台のそばに座っていたホトトギスの影に身を隠した。





 クロウリーは、セイラが意識を取り戻したことを知りほっと安堵したが、セイラの異常な行為を見て、「おや」と思った。クロウリーは、怪訝に思いながら、彼女に見舞いの言葉をかけながら彼女の寝台に近寄った。


 セイラは、ホトトギスの背中に隠れながら、その様子を窺っていた。


「セイラさん、どうしたんですか」


 クロウリーの質問に答えたのは、セイラではなくホトトギスであった。ホトトギスは、クロウリー一瞥すると、彼の見舞いがいかにも迷惑そうに不機嫌な声で答えた。


「セイラは、前の記憶を失ったんだ」


 クロウリーは、予期せぬ彼の返答に当惑した表情を見せたが、セイラの様子を見て、ホトトギスの言うことが真実であることを知った。彼は、表面的には「それは困ったことになりましたね」と漏らしていたが、これでこの仕事から解放されると思い、ほっと安堵した。


 上位魔族である風花の圧倒的な実力を見せつけられた。自分たち三人が束になっても勝てる相手ではな。端から負けると分かっている相手に喧嘩を売るのは、愚者の所行である。しかも賭けるのは、自分の命。王侯貴族や騎士の中には、名誉のために己の命を捧げるものもいるが、魔術師は魔族の手先と蔑まれ、一般民衆からは忌み嫌われており、世間的な名誉はなく、今さら誰に罵られようが痛くも痒くもなかった。何事も命があっての物種である。自分が心血を注ぐ魔術の研究のためにも、王都に残してきている家族のためにも、生きていなければならない。カイが不幸な状況であるならともかく、傍目からカイを見る限り、幸せそうであった。心を操られていることには同情するが、だからと言って一概に不幸とまでは言えまい。過去を捨てるために努力している人間もいるのだから。それに、幸不幸の感情など、所詮、主観的なものであり、傍目不幸に見えても、当人はそうとは思わず、幸せに思っていることだってある。何も命を賭けてまでカイを救出する必要はない


 クロウリーはそう思った。


 記憶喪失のセイラは、好都合であった。命と記憶の喪失では勝負にならない。セイラには気の毒だが、ここはセイラに記憶を失ったままでいてもらう事にした。


 彼は「それはお気の毒なことですね。私に出来ることがあったら、何でも仰って下さい」と言って、逃げ去るようにその場を後にした。


第六章 [セイラ3]

六章 癒し





 傷ついて





 完敗であった。風花の前に三人は手も足もでなかった。ホトトギスは、全身を血に染め、セイラを抱えたまま再び物質界に姿を現わし、セイラを抱えたまま茫然と立ちつくしていた。セイラの体温が、そして生命が、肩口から流出する鮮血とともに失われて行くことが分かった。彼は茫然として腕の中にあるセイラの顔を眺めて立ち尽くすことしかできなかったそして、セイラを戦いの場に誘ったことを。自分がセイラを説得できなかったことを強く後悔した。彼は無力な自分を責めはじめた。その間にも、セイラの生命は確実に損なわれていっていた。


 クロウリーは、茫然と立ちつくしている彼に声を掛けた。


「治療しなければなりません。お願いします」


 魔術は奇跡を現出する技術である。クロウリーには出来ないが、目の前の青年ならセイラの生命をこの世に繋ぎ止めることが出来る。いや、それだけではない。セイラの傷をたちまち完治させることが出来る。力溢れる上位魔族の彼なら、死者をも復活させることが出来るのだから。


「断る」


 その言葉を耳にし、クロウリーは、思わず我が耳を疑った。


 魔族は気紛れである。刹那刹那に、気持ちが劇的に変化する。一瞬のうちに、長年の寵愛憎悪へと変化すること珍しくない。そのこと魔術師であるクロウリーは知っていた。そのため、クロウリーは、ホトトギスのセイラへのが消滅したのかと一瞬考えた。


 しかしい、目の前のホトトギスは、生命を失いつつあるセイラを抱きかかえ、激しく自責しながら、彼女を愛しそうに見つめている光景を目にしていた。クロウリーは、魔族も人間も本質的にその心性に相違ないことを直覚した。だから、その理由を「何故です」と言葉短にホトトギスに尋ねた。


 だが、ホトトギスはその質問に答えようとしなかった。ただ自らを激しく責め、彼女の血の気が失せた顔に優しく微笑みかけるだけであった。


 クロウリーは、セイラの顔色を見て、二人にあまり時間が残されていないことを悟った。だから、これまで上に激しい口調で彼に迫った。 


「このままでは、死んでしまいます。あなたは、それでも良いのですか」


「構わん」


 ホトトギスは、クロウリーをきっと睨みつけ、敢然とそう言い放った。


 愛する人間と一緒にいたいと思うのが人情である。それなのに、何故か、目の前の青年は自らその機会を放棄しようとしていた。クロウリーには、その理由が分からなかった。目の前の青年はセイラを愛しているのに、何故、自らの力を用いて、彼女の命を助けようとしないのか。何故、彼女がこの世に永遠に別れを告げるのを、手をこまねいたまま目つめるだけなのか。人間であるクロウリーには、その理由が理解できなかった。


 クロウリーは、さらに語調を荒げて、彼に尋ねた。


「何故です」


 ホトトギスは、その気迫に押されたように、かたく閉ざしていた開きはじめた


「俺には、時間がある」


 クロウリーには、彼の返答の真意が理解できなかった。彼の論理が魔族のものであり、人間のものではなかったからそして、彼の発言の真意を探るべく、考え始めた。


 時間に制限される、一過性の存在に過ぎない人間と永遠に近い寿命を持つ魔族とでは、時間、生命に関する考えが自ずと異なっていた。魔族の彼は、セイラの転生を信じ、その時をこの世で待つことが出来るのだ。一過性の人間に出来なくとも、魔族である彼にはそのことが出来るのである。千年、二千年になろうが、それは目の前の青年にとって瞬きするほどの時間に過ぎないのだろう。そう、目の前の青年は待つことが出来るのである


 クロウリーは、その事に思い当たり、愕然とし「そんな」と呟いた。だからと言って、人間であるクロウリーにその事を認められるはずがなかった。魔族にとって瞬きするほどの時間に、人間は生まれ、恋をし、生命を育み、そしてその一生を閉じるのだ。それだから、人間の生は尊いのだ。短いからこそ、そのは悲しく、そして美しい。確かに人間の生は一過性のものであり、その霊魂は不生不滅のものであるかもしれない。肉体は生命を包む単なる器に過ぎないのだろう。だが、生命と肉体は不可分な関係であり、肉体を離れて生命は存在しえない。少なくとも人間はそうである。また、様々な偶発的出来事を重ねて、現在のセイラがいるのであって、霊魂の同一性に於て、セイラがセイラであるのではない。両親から受け継いだ、そして彼女が今の肉体で経験したことがあって、初めてセイラがセイラであるのだ。魂が同一でも、そのいずれが異なっていれば、それは別人である。決して同一人物ではない。だから一過性の人間の生は尊いのだ。その生を奪う権利は誰にもない。魔族にも神にもその権利はない。セイラの生の可能性が僅かにでもあれば、クロウリーはそれにかける。だから、「どいて下さい。私が手当します」と言って、セイラを彼の手から奪おうとした。


「手を離せ」


 ホトトギスは、クロウリーを一瞥してから、彼に背を向けて、セイラを守ろうとした。彼には死に行くセイラを見守る権利があったのだからそして、彼女の最期を見守る義務があった。彼は誰にもセイラを離そうとはしなかったその姿を永遠に心にとどめるために、体温を徐々に失うセイラを瞬きもしないで見守り続けた。


「どうして、自分の力を使おうとしないのですか。あなたなら、彼女を救えるはずだ。あなただって知っているはずだ。あなたが愛しているのは、今のセイラだ。再生したセイラではないはずだ」


 クロウリーの生命を搾り出すような問いかけに、彼は閉ざしていた口を開いた。


「俺は力が強すぎる」


 クロウリーには彼の発言の真意が理解できなかった。力が強ければ、なおのこと結構ではないか。セイラの命を繋ぎ止める可能性がそれだけ高くなるのだから。


 ホトトギスは、クロウリーが不審そうな表情をするのを見て、彼の疑念に気がついた。彼は言葉少なに事情を説明した。


「俺の魔力は強すぎる。こいつのの傷を直すだけでは済まない。こいつの魂まで変えてします」


 ホトトギスは、無念さを吐き出すように、しかし、消え入りそうな声でそう呟いた。クロウリーは、彼の言葉を耳にし、「そんな」と落胆した。しかし、嘆いていられなかった。彼は意を決したように彼からセイラを奪おうとした。しかし、ホトトギスは彼にセイラを渡そうとはしなかった。クロウリーは、自らの死を賭して「人は出血だけでも死ぬのです。せめて、止血だけでもさせて下さい」と懇願した。


 ホトトギスは、クロウリーとセイラの顔を交互にしばらく見比べてから、「分かった」と言い、セイラを寝台の上にそっと下ろした。クロウリーは、止血するために彼女の鎧と衣服を剥ぎ取った。むっとむせ返るような血の匂いが彼の鼻を襲った。クロウリーは、それを堪えながら、セイラの止血を試みようとした。魔術師である彼は、魔術への必要性から、人体の構造と仕組みについてのある程度の知識を有し、簡単な医療行為なら施すことが出来た。しかし、そんな彼を嘲笑するかのように、止血したところから再び血がにじみ出てきた。何度も止血しようと懸命に努めたが、血は止まらなか。大量に出血したセイラの脈は消え入るほど弱くなっていった。クロウリーは諦めた表情で後ろを振り返った。


 ホトトギスの体が小さく震えていた。生命を失いつつあるセイラを茫然と眺め、彼女の最期が近いことを予感し、魔族である彼が震えていた。愛しい者の死に直面し、その恐怖で子供のように体を小刻みに震わせていた。


 クロウリーは、セイラのためにではなく、魔族の、しかし人間に近い心性を持つこの青年のために、セイラの命を助けたいと思った。クロウリーは、彼の震える姿をじっと見つめながら、その方策を懸命に探った。


 そして、かつて争った一つの存在を思い出した。セイラの命を助けてくれる保証はない。自分たちが赴いた瞬間、手痛い歓迎を受ける可能性もあった。しかし、クロウリーにはほかに選択肢がなかった。クロウリーは、意を決して、青年に行き先を告げた。


「あの方の下に、参りましょう」





 屍の王





 それは、珍客の突然の登場に驚いた様子を見せ、一段高いところにある椅子に座りながら、招かれざる客を歓迎した。


「これは、珍しいの訪れじゃ」


 彼は、クロウリーにではなく、セイラをしっかりと抱きかかえる青年を睨みながら、そう言った。


 それは何度も彼と争ったことがある。ホトトギスの暇潰しに、何度か有無を言わされずに付き合わされたことがある。その事に関して特に恨みを抱いていなかったが、好意は抱いていなかった。それは、油断ならない目つきで、ホトトギスを睨み据えていた。


「して、今日はどんな用件で来たのかな」


「助けて欲しい」


 ホトトギスが必死の形相で助けを求めてきた。それは、信じられないとった表情で、人の形のホトトギスを見た。上位魔族の彼に出来ないことがあるのであろうか。それは不審そうに彼を眺め回した。


「それで、願いは何だ」


 彼は抱えているセイラをそれのほうに差し出し「助けて欲しい」と懇願した。


 それは、愉快であった。人知を遙かに超えた力を有する魔族が、かつて人間であった自分に懇願する。命ずれば、膝を屈しても自分に懇願するだろう。神以上に誇り高い上位魔族が。そう思うと、その姿を想像するだけで愉快であった。だから、「願いを叶えてやろう」と言い、威厳に満ちた様子で椅子を立ち上がった。そして、ゆっくりとホトトギスに歩み寄り、セイラの傷口をチラリと見た。そして、皺だらけの、涸れ切った右手を彼女の右肩に翳した。自らの力で不死になった男。神や魔族でさえ突き止められない生命の神秘に到達した男。彼の力は圧倒的であった。手を翳しただけで、セイラの傷を塞いでしまった。


 それを見て、ホトトギスは安堵した表情を見せた。


 不死の男は、人間のことを何も知らない青年を冷笑しながら、何事でもないように彼に囁きかけた。


「このままだと死ぬぞ」


 治療したのに、どうしてセイラが死ぬのか理解できず、ホトトギスは様々な感情の交じった顔つきで不死の男を見返した。それを見て、不死の男が「愚かな」と内心で呟いた時、クロウリーが彼の疑問に答えた。


「血が足りないのですね」


 クロウリーは不死の男に確認した。死霊召喚者の彼にとり、生命の深奥に辿り着いたその男は、尊崇すべき存在であった。不死の男は、彼が頷くのを感慨をもって見ていた。


 ホトトギスは魔族である。精巧な偽物を作ることが出来ても、偽物は偽物であって、決して本物にはなりえない。人間の血液のようなものは出来ても、人間の血液を作ることは出来ない。ホトトギスは狼狽した様子を見せた。


「どうすれば良い」


 屍の王は、予想通りの彼の反応に満足し、彼に命じた。


「お前の血が欲しい」


 それは、当惑する魔族の青年の顔を心地良さそうに見ながら、彼に強く催促した。


「この娘の命を助けたいのではないか」


 それは、そう言うと、虚空から銀盃を取り出し、それをホトトギスに差し出した。銀盃をホトトギスの血で満たすように、目で促した。ホトトギスは、しばらく躊躇した様子を見せたが、やおら右手を切り裂き、その手を男が持つ銀盃の上に翳した。彼の鮮血が勢い良く銀盃に流れ落ちみるみる内に銀盃を満たした。男はその銀盃をセイラの胸の上に運び、それを傾けた。真紅の血が傾けた銀盃から流れ落ちその血液は、セイラの胸までの半ばほどのところできらきらと輝きだし、金色の砂へと姿を変えて、彼女の胸へと降り注いだ。そして、彼女の胸に到達すると、一際強く輝きだし、彼女の胸部全体を金色に包み込み、消え入るように胸の中へと吸収された。


 その奇跡は、銀盃を満たしたホトトギスの血がなくなるまで続いた。そして、さきほどまでの奇跡が嘘であったかのように、あたりは元の薄暗い世界へと戻っていった。


 ホトトギスはセイラの顔を心配そうに覗き込んだ。蒼白だったセイラの顔に、生気が若干戻った。彼はその事を確認してから、恐る恐る耳を彼女の胸に近づけた。とくとくと生命のリズムを彼女の心臓は刻んでいた。彼はほっと安堵した表情をして、奇跡を起こした男に尋ねた。


「望みは何だ」


笑止な。娘を一人助けられぬお前に、一体、何が出来ると言うのだ」


 男はそう言うと高らかに彼をあざけ笑った。安堵感と屈辱感が混在する、複雑な表情をしている彼を高らかに嘲笑し続けた。そして、不遜な魔族の青年に命じた。


「目障りだ。さっさと、失せろ」


第5章の終わり [セイラ3]

 作戦決行





 三人は、その後、簡単な打ち合わせをして、敵地に乗り込んだ。乗り込むとは言っても、歩いて行けるではなかった。セイラとクロウリーは、人の姿になったホトトギスの体にしっかりとしがみついた。ホトトギスは、クロウリーに見せている顔半分にはいかにも迷惑そうな顔をし、セイラには満面の笑みを浮かべ、「いいか」と二人に声をかけてから、瞬間移動した。


 一行が再び姿を現したのは、風花の居城の中であった。その美しさに、セイラとクロウリーは思わず目を奪われた。緑なのか、青なのか分からない、しかも、限りなく透明に近い色で、その城は彩られていた。外から燦々と光が差し込み、場内は非常に明るかった。しかし、透明な壁であるのに、壁で仕切られたその先は見通すことが出来なかった。だが外の景色は見ることが出来た。通常の空間の概念を超えた、そこは不思議な空間であった。ダイアモンドの中にいるような、しかし、同時に、外からダイアモンドを見ているような、幻想的な世界であった。


 セイラは、その幻想的な世界に魅了され、思わず「きれい」と大声を上げてしまった。その声を耳にし、クロウリーが「セイラさん、そんな大声を出したら駄目ですよ。ここは、敵の真っ只中なのですから」とセイラの軽率な行動を注意した。セイラは、自分の軽率な行動を反省し、「御免なさい。以後、気をつけます」と礼儀正しく頭を深々と下げて謝った。


 ホトトギスは、とことん魔族の力を見くびるこの二人の呆れ。頭を何度も軽くポリポリと掻いた。そして、二人に衝撃の事実を告げた。


「お前ら、魔族を馬鹿にしていないか。俺達がここに来たことなんか、あの女にとうにばれているよ」


 二人は同時に「嘘」と言う驚きの声を上げた。ホトトギスは、魔族の力を徹底的に馬鹿にする二人に呆れながらも「そら、行くぞ」と声をかけ、風花の待つ部屋へと歩き出した。その姿を見て、二人は慌てて彼の後を追い始めた。


 光が織りなす幻想的な光景にも慣れ、セイラは、ホトトギスの右腕をしっかりと抱えながら、歩き続けた。そこは、三人の立てる足音以外何もない静寂な世界であった。三人の到着を知りながら、何ら反応を示さないことを、セイラは不審に思い始めた。彼の右腕を二度三度引っ張りながら、ホトトギスにこう問いかけた


「ねえ、どうして襲ってこないの」


 それは、人間のセイラにとり、ごく当然の疑問であった。侵入者を排除することは、生物の世界にとっては当然のことである。種を守るために、組織を守るために、必要なことである。そのためには、時に絶望的な戦いを挑むことさえあるのだから。しかし、それは人間、いや、生物の論理であって、魔族のものではなかった


「さあね。他人(ひと)のやることは、理解できんもんだ」


 人形(ひとがた)のホトトギスは質問の答えをはぐらかした。言えるはずがなかった。下位魔族が束になっても、上位魔族に勝てないからなのだとは。それほどに上位魔族の力が強大であり、その上位魔族にこれから戦いを挑むのだとは、言えるはずがなかった。


 幸い、セイラは彼のその質問の答えに納得し、「それも、そうよね」と問わず語りに呟いた。ホトトギスは、セイラの豪胆さと言うべきか無知と言うべきか、それに改めて驚きつつ、笑みが自然と口元n浮かんできた。


 三人はさらに奥へと進んでいった。すると、透明な、しかし、虹色に輝く扉が三人の前に現れてきた。それが目的地の入り口であることは明らかであった。セイラは、ホトトギスの右腕を離し、その扉を開こうとした。その時、ホトトギスが「待て」と声をかけ、彼女の動作を制止した。セイラは、ホトトギスのいつにない真剣な顔を見て、慌てて手を引っ込めた。


「罠があるの」


 ホトトギスは、セイラな真剣な質問に何度も顔をぷるぷると小さく横に振った。上位魔族がそのような姑息な手段を取るはずがなかった。もし罠を仕掛けるのであれば、それ以前に掛けているは。ホトトギスは、セイラに頭を突き出して、「セイラ、良い子、良い子して」と甘えた口調で言い、セイラに「良い子」を催促した。


 セイラの緊張の糸は、ホトトギスのかわいらしいおねだりの姿を見て、一気に緩んでしまった。と同時に、セイラはこれから決戦を迎えるとうのに、緊張感がなさ過ぎる」と思ったが、ホトトギスにここで癇癪を起こされたら大変であり、また、彼以外に頼れる存在がいないことに思い当たり、仕方なく彼のご機嫌を取ることにした。彼女はいつもより丁寧に彼の頭を何度も撫でてやった。ホトトギスを鼓舞するために、そして、何よりも彼の無事を祈って、彼の頭を丁寧に撫でてやった。


 彼女が撫で終わった時、扉が自然と開いた。三人は、決戦の舞台に緊張した面持ちで進んでいった。





 激戦





 セイラは、カイと風花の姿を目にして、我が目を疑った。品行方正だったカイが人前で女性と戯れているなど、彼女には想像だにつかなかったからである


 一方、カイは、三人の出現を着にする様子も見せず、風花の膝の上に斜めに座り、彼女の首に手を回して、彼女の顔を正視していた。時折、彼女の首に、頬に飽きる様子もなく口付をしていた。


 セイラは、変わり果てたカイの姿を見て、昨日自分に掛けられた同じ魔法で彼が操られていることを確信した。そうでなければ、カイがここまで変わり果てるはずがない。セイラは、そう思い、激しい憎悪の籠もった視線で、風花を睨み付けた。そして、彼女に命令した。


「カイ君を返しなさい」


 風花は分を弁えぬ愚かな人間の娘を平然と見下ろし続けた。そして、おもむろにカイに尋ねた。


「カイ、あの人達と人間の世界に帰る」


 カイは、愚かな質問とでも言いたげに、彼女の唇に右手の人差し指を軽く添えて、彼女の唇の動きを制した。風花は、カイのその返答に満足し、彼の紙を右手で何度も梳いて上げた。


「年端の行かない子供を誑(たぶら)かすなんて、良い大人のすることか」


 ホトトギスが顔見知りの風花を挑発した。風花は、一瞬、彼のほうに視線を向けたが、すぐさま視線をカイに戻した。


「言いがかりは止めて頂きたいわ。それに、魔族のあなたが可笑しなことを言うものね。その女に、骨の髄まで冒されてしまったのかしら。人間の倫理を持ち出すところを見ると、頭までいかれてしまったようね


 風花は、そう言ってから、彼の頭の中を心配するように、わざとらしく溜め息を吐いてみせた。彼女を挑発するつもりが反対に彼女に挑発され、ホトトギスはプライドが大いに傷つけられた。ここまで愚弄されて黙っていられるほど、ホトトギスは大人ではなかった。ホトトギスは顔を怒りで真っ赤にして、「お前は、顔が良い割りには、本当に性格悪いよな」と精一杯の皮肉を言った。


「お誉め頂いて、嬉しいわ」


 彼女は不割りとした笑顔を投げかけてきた。その時、二人の視線が遭った。


「私とやる気なの」


「ああ、こっちにも退けない事情があってな」


 ホトトギスは、そう言うと、漆黒の気を纏い始めた。風花は、それを見て、カイに「お利口にしていてね」と声を掛けてから、彼を膝から下ろし、立ち上がった。そして、空間から剣を取り出し、それをカイに手渡した。


 上位魔族同士の気が触れ合い、反発した。空間が歪み、無気味な悲鳴を上げ始めた。それを合図に二人の戦いが始まった。


 魔族は、その力を振るうのに、呪文も所作も必要としない。思念を直接現象化させる力がある。二人の回りに様々な超常現象が何の前触れもなく頻発した。発光現象、温度の高低を問わない熱現象が起き続けた。時に巨大な氷塊が二人に降り注いだり、巨大な炎に包まれたりした。しかし、二人は一毛も損ずつ事無くその場に立ち続けていた。二人とも、互いが纏う気、結界と言ったほうが正確かも知れないが、それを破れないでいた。一つは互いの実力が伯仲しているためであり、もう一つは互いにの実力を発揮という事情があったからである。ホトトギスも風花も、その場に守るものがいたのだ。無制限の力の発揮するには、この空間は余りに狭すぎた。二人の本気の力が衝突すれば、この空間諸共にセイラとカイは消滅してしまう。そのため、二人の戦いは制限されたものになり、結果、長い膠着戦が始まった。


 上位魔族同士の、派手なしかし静かな戦いとは別に、もう一つの戦いが始まった。セイラとクロウリーは、風花の剣を手に持ったカイに戦いを挑んだ。


「カイ君、正気に戻って」


 度重なるセイラの切なる願いも、カイの心には届くことはなかった。それどころか、カイは二人を敵と見なし、敢然と歩み寄ってきた。


 セイラは、カイの瞳に氷のような冷たい殺意を発見し、愕然とした。クロウリーは、カイを説得できないことに気づくと、立ち竦んでいるセイラに事実だけを告げた。


「ここは戦うしかありません」


 セイラは、その言葉を聞き、覚悟を決めた。カイを張り倒してでも、連れて帰ろうと。


 セイラは樫の棍棒をしっかりと右手に握った。棍棒なら、あまり傷をつけることなく、カイを一撃で気絶させることが出来る。そうした思いからの武器の選択であった。彼女は、左手にカイの斬撃を防ぐための盾を持ち、右手に棍棒を持って身構えた。


 もちろん、剣の技量ではカイに遠く及ばないことを知っていた。一対一でカイと戦えば万に一つに彼女に勝算はなかった。しかし、彼女には、不思議の術を操る魔術師のクロウリーがいた。セイラは、クロウリーの援護を期待し、カイに戦いを挑んだ。一撃で失神させるために、彼女は間合いを計った。あと一歩。そう思った瞬間、カイがいきなり飛び込んできた。セイラは、慌てて鋼鉄製の盾を剣の軌道に向けた。幸いなことに、何とか盾は間に合った。剣と盾が衝突して、火花を飛ばした。それと同時に、カイの小さな体からは想像できない衝撃が盾越しに彼女の左腕を襲った。彼女の左手が激しく痺れた。そこに、さらに一撃が振り下ろされた。彼女の体が斬撃の勢いで傾いだ。セイラは、カイに反撃できないことを思い知らされた。カイとの実力の差を改めて思い知らされた。カイが彼女に止めを刺すために剣を振り下ろす姿が見えた。彼女は自分の死を直観した。そして、大好きなカイが人を殺すところを見ないために、彼女は目を閉じた。


 クロウリーは迷っていた。戦うとは言ったものの、具体的にどのように戦ったら良いのか見当もつかなかったからである


 魔術は破壊力が大きい反面、呪文の詠唱に時間がかかる。したがって、接近戦には全く無力であった。それを補うために、魔術を封印した何か、例えば呪符とか秘石をあらかじめ用意しておくのだが、彼がいつも携えていた秘石は昨夜使用してしまっていた。言葉は悪いが、セイラを人の盾として時間稼ぎをし、呪文を唱えるほかなかった。しかも、カイとセイラの実力の差を考えれば、そのチャンスは一度しかなかった。その一撃でカイを倒さなければならなかった。


 さらにカイを殺さないとう制限がついていた。実はこれが最大の問題であった。と言うのは、魔術はその発展の歴史の上でひたすら威力の増大方向に発展していており、威力の制限と方向には進んでこなかったからである。剣のように威力を加減するとうことがそもそも出来ないのである。。しかも、術者の能力により、同じ呪文を使っても、威力が異なってしまう。さらに、加減することが困難になってくるのであった。


 しかし、今にもカイがセイラを屠ろうとう光景を見て、そんな悠長なことを言っていられなくなっていた。クロウリーは、カイの生命力を信じて、比較的人体に安全とされる雷球の呪文を唱えた。セイラの命を救うために、その雷球をカイに投げつけた。魔術である。狙いを外すことはない。たとえ避けても自動追尾する。雷球は、クロウリーの言とした通り、カイに向かい一直線に進んでいった。そこでクロウリーは、信じられない光景を目にした。


 カイは、姿勢を崩したセイラの止めを刺すために剣を振り上げていた。その時、自分に向かい直進する雷球を目にしそれを避けられないことを直観すると、すぐに剣を構え直した。


 この剣は風花がカイのために準備した剣である。その剣には底知れない力が秘められていた。彼は直進する雷球に剣を振り下ろした。剣が雷球を両断した瞬間、異なる力を持った二つが反発しあいながら、その力を一気に周囲に放出した。辺りを閃光が包んだ。その眩い光でカイの目が眩んだ。カイは本能的にセイラの反撃を避けるために後ろに飛び退いた。


 偶然ではあったが、セイラは、翳した盾と閉じていた瞼で、その眩いばかりの閃光から目を守ることが出来た。彼女は、クロウリーが何かしたことを直観し、閃光が消滅するのを待ち、目を開いた。カイのがら空きの左胴が見えた。


「カイ君、ごめん」


 セイラは、心の中でそう叫んで、乾坤一擲の一撃を放った。しかし、カイが飛び退くのが一瞬先行した。セイラの棍棒は、カイの衣服を僅かに掠めただけであった。だが、彼女は崩れた態勢を気にすることなく、狙いを定めず逆方向に棍棒を返した。


 棍棒は「ばし」とう音を立ててカイの二の腕の辺りを激しく叩いた。セイラの得物は剣ではなく棍棒であった。流れ切った体からの、よく狙いを定めない腕力だけによる一撃であった。さらにその威力は落ちた。当たりはしたが、彼女の思うような一撃にはならなかった


 目をつむった状態であったが、この一撃がセイラの居場所を教えてくれた。カイの最速の左手の一撃がセイラを襲。流れ切ったセイラの体、しかも、カイの最速の剣撃。セイラにこれが交わせるはずなかった。カイの斬撃はセイラの鎖帷子を易々と切り裂き、彼女の肩をざくりと切り裂いた。


 断末魔のようなセイラの悲鳴を聞き、ホトトギスは動揺した。視線の先を風花からセイラに向けた。セイラが肩口から盛大に地飛沫を迸らせていた。彼は、それを見て「セイラ」と大声を上げた。その緊張の緩和が彼と風花との均衡を破った。風花の放った風の刃が四方八方から彼を一斉に襲いかかった。彼の肉は深々と切り裂かれ、全身から血を噴出させた。ホトトギスは、その傷に構うことなく、セイラに襲いかかろうとするカイにめがけて気弾を放った。


 風花は、ホトトギスの放った気弾を見て、カイを守るために姿を消した。そして、カイの背後に現れると、カイを小さく突き飛ばした。それと同時に彼女の背中に激痛が走った。


 この瞬間以外に、脱出のチャンスはなかった。しかし、カイを連れてはいけなかった。それは、風花を同時に連れて行くことになる。今のホトトギスには、カイとセイラを風花から守るだけの力がなかった。ホトトギスは、カイを放置し、セイラとクロウリーを連れてその場から姿を消した。


第5章の続き [セイラ3]

 計画





 セイラは、昨日、カイが見知らぬ女とともにいるところを見てしまった。彼女は目を覚ますと、同室に休むホトトギスを叩き起こし、その理由を問いただし始めた


 目を覚ましたホトトギスは、眠そうに右の翼で目の辺りを擦りながら、彼女の質問の意味が分からない顔つきをして、彼女の顔を見上げていた。ホトトギスは、何とかしてセイラの質問をやり過ごそうとしたが無駄であった。昨日、セイラに犯人を目撃されてしまった以上、どうしようもなかった。すっかり観念したホトトギスは、不承不承であったが、風花が今回の事件の首謀者であることを認めた。


 しかし、セイラは、追求の手を緩めようとはしなかった。ホトトギスが円らな瞳に一杯の涙を浮かべて「これ以上は知らない」と訴える言葉に耳を貸さず、「洗いざらい白状しなさい」と強く迫った。時に鉄拳の雨を降らし、時に彼の頭を優しく撫でてなだめすかして、彼から少しずつ情報を引き出していった。


 ホトトギスは、頭だけではなく、顔までも殴られ、顔面を血だらけにしていた。左目の上は酷く腫れ上がり、そこから幾筋も血を流していた。しかし、ホトトギスは、一切文句を付けず、セイラの際限のない拷問に耐えぬいた。そして、ホトトギスは最後まで重要なことは何も話さなかった。無尽蔵の体力を誇るセイラではあったが、顔中を腫らせながら、無気味な笑顔を絶えず投げかけてくるホトトギスに根負けし、「憶えていらっしゃい」と捨て台詞を吐き、ひとまず彼への尋問をひとまず中断した。


 ホトトギスは安心したようにその場に崩れ落ちた。彼は、薄らいで行く意識の中で洗顔に出かけて行くセイラの後ろ姿をしばらくぼんやりと眺めていた。彼女を一人にすることに不安を感じ、飛び上がった。


「セイラ、待ってよ。僕独りぼっちになったら、寂しいよ」


 あれだけの折檻を受けたと言うのに、脳天気な声を上げて、ホトトギスが追いかけてきた。その声をうんざりした思いで聞きながら、声のしたほうを振り返った。そして、ホトトギスが盛大な羽音を立てて追ってくるのを見て、あの体力は一体何処から来るのだろうと今更ながらに驚いた。ホトトギスを置いて先に小川に行こうと思ったが、後のことを考えると、それも煩わしかった。セイラは、ひとつ大きな溜め息を吐き、彼を待つことにした。


 彼女は、目を周囲の景色に移した。昨日、二度この道を通ったはずなのに、初めて目にする光景のように感じられた。考えてみれば、昨日一日の出来事は全て夢のように感じられた。心を何ものかに惑わされ、彼女の意志とは無関係に行動したのだから、それも無理もないことであった。セイラは、夢とうつつでは、見る風景が何故もこのように変わるのだろうと思いながら、春の景色を楽しんだ。


 王都周辺には見られない野草が春の光を一杯に浴び、一斉に芽吹いていた。彼女は、その葉の色を見て、様々な緑色が存在することに気づいた。濃い緑、薄い緑。黄色い緑、青い緑。草の種類が変われば、葉の色も変わっていた。同じ種、同じ個体でも、葉の位置、大きさによって、その色は微妙に変わっていた。当たり前のことなのだが、その事を看過していた。彼女は自然の奥深さを改めて感じた。


 いつの間にかに彼女の右肩に舞い降りていたホトトギス、周囲の景色に見とれているセイラの顔をじっと眺めた。自然に見とれるセイラ、その彼女に見とれるホトトギス。この奇妙な構図はしばらく続いた。そして、動かぬセイラを木か何かと勘違いしたのであろうか、毛虫がセイラの足を上り始めた。


「あっ、毛虫だ」


「きゃぁ~、どこ、何処にいるの」


 セイラは大きな悲鳴を上げながら、毛虫の居場所を捜し始めた。ホトトギスが彼女の右足を指しているのを見て、恐る恐る右足に視線を向けた。右足の膝当たりをゆっくりと、毛虫が這い上がっているのを目にし、彼女の顔から一斉に血の気が引いていった。ズボン越しに毛虫の這い回る感覚が伝わってくるようにさえ感じられた目を毛虫に釘付けにされたまま、彼女の体が固まった。恐怖のあまり、彼女は悲鳴すら上げることが出来なかった。その間にも、毛虫はゆっくりと、しかし、確実に上を目指し上っていった。


 ホトトギスは、セイラの様子をしばらく眺めてから、彼女に取り引きを持ちかけた。


「毛虫、取って欲しい」


 セイラは、目を何度も瞬かせて、彼に返事した。ホトトギスは、にこにこと笑いかけながら、彼女に見返りを要求した。


「僕の言うことを、何でも聞いてくれる」


 その返事に躊躇している間にも、毛虫はさらに太股の辺りを徘徊していた。彼女に選択の余地は残っていなかった。再び目を瞬かせて、彼女は了承したことを彼に伝えた。二三日前に、彼女に約束を反故にされたことを、ホトトギスはしっかりと憶えていた。ホトトギスは、彼女が約束を反故に出来ないように、彼女にしっかり念押しをした。


「約束を破らないね」


 彼は、セイラへの不信感を完全に払拭できず、彼女が目蓋を瞬かせているのを横見で見ながら、さらに念押しをした。


「セイラの神様にかけて、誓うよね」


 セイラが目で頷くのを見て、ホトトギスは腰のあたりに這っていた毛虫を嘴で捕らえて、それを美味しそうに一呑みにした。それから、ホトトギスは、翼と嘴を器用に使い右肩に舞い戻ると、真剣な眼差しをして彼女の顔を覗き込んだ。


「約束を忘れていないよね」


 ホトトギスは、そう言って、約束を履行する意志のあることを彼女に確かめた。


 神の名にかけて誓った以上、彼女は彼の約束を反故にすることが出来なかった。どんな難題を吹きかけられるのかと、内心びくびくしながら、力強く頷いた。


 ホトトギスは、それを見て安心した様子を浮かべ、彼女に聞こえないような小さな声でこう呟いた。


「僕の命をかけても、セイラだけは絶対に守るから」


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