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シェリル ラスト [シェリル]

。8 闇に蠢くもの

 

 アンとエルスロッドの派手な大立ち回りは、ますます過激なものになっていった。国王と王都の警察当局最初、二人のこのスタンドプレーを迷惑なもの程度に考えていたが、二人の活躍が次第に王都住民から支持されるものになり、これに協力せざるをえない状況になっていった。


 しかし、シェリル暗殺未遂事件については、国王にも王都の治安当局にも知らされていなかった。あくまで、王都の治安維持と暗殺団の撲滅をキャッチコピーにし、二人の捜査は秘密裏に展開されていた。


 一方、エルスロッドは、アンからも、ジェラルドからも、この二人の秘密協定に何も知らされぬまま、アンに命じられるままにアンの手足になり日夜奮闘していたこの甲斐あり王都における彼の人気と評判はうなぎ上りに上昇し、王都住民から多数の協力を得ることが出来た。貴族はともかく、暗殺組織盗賊団という存在は、王都住民の日常を破壊し、脅かす存在であり、この二人への協力はそのまま彼らの生命、財産、そして家族を守ることに直結していた。それだけ、王都の住民は、噂話をはじめに様々な情報をこの二人に提供したし、また、表面に出ない形で、この二人の捜査に積極的に協力した。その甲斐あり、日を重ねる毎に、一つ、また一つと、社会で暗躍していた裏組織が王都から姿を消していった。


 当初は王女と少年騎士のおままごと程度にしか考えていなかった裏組織であったが二人の活動が王都住民を巻き込む大きな流れとなるにつれこれを無視できなくなっていた。中には、王都から撤退する組織も出てきた。


 こうなると、闇の組織もこの流れを無視することも出来なくなり、その象徴的な人物に刺客を放つようになる。とはいえ、さすがに王女のアンを狙うことなど出来るはずがなく、当然狙われるのはエルスロッドであった。このため、彼は、昼夜に関わらず、絶えず命を狙われた。そして、危うく殺されかけたことは、一度二度のことではなかった。今まで生きてこられたことが奇跡であった。そして、今夜も、また。その命を狙われる。

 

 エルスロッドは、今夜も、夜警のためにひとり王都の町の巡回を始めた。シェリル暗殺未遂事件の犯人を捕まえるために王女に協力したのに、今ではすっかり王都の守護神的な存在になっていた。悪い気はしないが、正直、このままでは自分の体がもたない。ここ数日、生傷が絶えたことはなかったし、慢性的な睡眠不足に陥ってさえいた。それでも、彼は、眠い目を擦りながら、王女に命じられたとおりに、王都でも最も治安の悪い地区を巡回を始めた。


 人気が殆んどなく、いつ暗殺者あら自身の命を狙われるか分からない。彼の緊張感は次第に張りつめていったそして、街角を曲がったところで、背後から人の気配を感じたそれに気付かない振りをして、エルスロッドは、そのまま足を進めた。


 しかし、いくら待っても、襲って来る気配がなかった。勘違いかと思い、後ろを振り向こうとした。その時のことである突然、背後から二人組の男が切りつけてきた。その瞬間、彼の髪の毛と鮮血が宙に舞った。


「汚ねーな、闇討ちかよ。しかも二人組で背後から


 彼はおどけた様子でそう言ったが、頬はざっくりと裂かれており、そこから血を迸らせていた。エルスロッドは、その傷を気にする事なく剣を抜くとそのまま構えた。そこには見憶えのある顔が一つあった。


 エルスロッドは、「そうか」と呟くように言うとこの二人の様子を窺い始めた


 もう一人の男は、暗殺用のではなく、大剣を構えていた。その構えから、かなりの手練れであることが見て取れた。


これは、用心しないとな』


 彼は、心の中でそう呟くと、この男を切りつけた。思ったように、この一撃は簡単に弾かれてしまった。そして、それに呼応したかのように背後からざくりと背中を切りつけられてしまった


「汚いな、おまえ達」


 エルスロッドは、背中の痛みを堪えつつ、相手をそう罵った。


 もとより彼らは暗殺者である。騎士のような生々堂々と戦うつもりなどない。生きるか死ぬか、それだけが問題である。そして、この二人は自身に与えられた任務を忠実にこなすだけ。一歩、一歩、獲物であるエルスロッドを追いつめて行く。


 この見事なまでの連携技を何度も受け、エルスロッドは、全身を血に染めていた。漫画などにあるように、ヒーローがいとも簡単に複数の相手を倒すことなど実際にはありえない。相手がある一定以上の技量に達していれば、一対二の勝負は、必ず二が勝つ。そして、エルスロッドの目の前にいる、この二人はかなりの手練(ただれ)であったエルスロッドを待ち受けたいる未来は、死のみであった。


 そこで、彼は殺されないために懸命に防戦に徹した。しかし、そんな彼をあざ笑うかのように、一つ、二つと傷が増えていったそして、背後から襲われないように、彼は一歩ずつ用心深く後退した。そして、壁に背をつけたとき急に膝に力が入らなくなった。彼は、そのまま、その場で膝をつけてしまった。


『血を流しすぎたか


 彼の思いを読み取ったかのように、顔を見知った男がこう呟いた。


どうやら、毒が効いてきたようだな」


 彼は失念していた。男の持っている短剣には致死性の毒が塗ってあることを。

 


13。9 親娘(おやこ)

『シェリル、ごめんな。お父さん、もう、お前をを守ってやれない


 彼は、自分の死期が近い事を知った。そして、もう一目だけ、シェリルの顔を見たいと思った。そんな彼を嘲笑するかのように、二人の男が彼に止めを刺すために、ゆっくりとした足取りで近付いてきた。彼は、ギッとひと睨みした後自身の未来を受け入れるために目を閉じた。その時のことである。「そこまでよ」と聞き慣れた声がした。エルスロッドは再び目を開け、その声のした方を見た。


「王女」


 そこには、勝ち誇ったような表情を浮かべたアンが近衛兵を数名率い、この二人を囲んでいた。形勢逆転エルスロッドを襲った二人組は逃げられない事を悟ったようで、武器を投げ捨て、あっさりと降伏した。


「王女様、オレ、このまま死んじゃうですか


 エルスロッドは、情けない声で王女にそう尋ねた。


「さあ、どうかしら」


 このアンの言葉がが彼の聞いた最後の言葉であった。彼は、この言葉を聞くのと同時に、意識を失った。


「お父さん、シェリルに心配させないで」


 愛娘叱責する声で彼は目を覚ました。そして、『俺は死んだのかな』と思いつつ、朦朧とした意識の中で、娘の顔をのぞき込んだ


 シェリルが、今まで自分に見せたことのない恐い顔をしていた。そして、自分が死んでいない事を知り、シェリルの方に手を伸ばそうとした。


「お父さん、怪我してんのよ。分かてるの」


 力弱く伸ばそうとしたその手が、まだ六歳の幼女にすぎないシェリルによって簡単に払いのけられてしまった。


「痛えな。何すんだ、シェリル」


 そんな父親の抗議に耳を傾けようとせず、シェリルの説教が始まった。そして、シェリルの説教がひと段落ついたところで、で、何で、俺生きてんだ」と娘に質問してみた。


 彼は致死性の毒薬に確かに冒されたのだ。それなのに、何ゆえ、生きているのか不思議であったからである


「おねえちゃんと先生が治してくれたの」


 医師が治してくれたとうのは理解が出来たが、王女どうして治せるのか彼には疑問であった。そこで、彼は、駄目もとで、シェリルにこの疑問をぶつけてみた。


「お姉ちゃん、夏からずっと薬草の勉強をしていたの。それで」


「何で、王女様がそんな勉強をなさっているんだ?」


「う~んと、シェリルをその内に毒で殺そうと企んでいるんじゃないかな」


 一瞬、『まさか』と思ったが、愛するジェラルドをシェリルに奪われそうになれば、それくらいのことはやりかねない、と思った。現に、自分はアンによって死の一歩手前まで追いやられたのだ。


「お父さんそんなことを心配するよりも早く寝てよ。怪我してんだから、早く寝てよ」


 瀕死の重傷を負っている父親にかけるには、余りの言葉だと思ったが、普段の自分の言葉遣いを考えれば、シェリルのことを責められなかった。


『俺のが遺伝(うつ)ったのか』


 彼はほくそ笑みながら、娘の忠告の通り目を閉じようとした。しかし、突如、一つの懸念が浮かんだ。彼は、一旦閉じた目を開くと、娘の顔を正視して、こう尋ねた。


「お前、お父さんが寝たら、ジェラルドの所にすぐ行くつもりじゃないよな。昔のように、お父さんを優しく看病をしてくれるんだよな」


 このエルスロッドの発言が如何にも心外といった表情を浮かべ、シェリルがコクリと力強く頷き返してきた。しかし、エルスロッドは、シェリルのこの姿を見て、こう確信した。
『オレを寝かしつけたら、こいつは絶対にすぐジェラルドのところに行くな。こいつが、ジェラルドをアン王女に独り占めされている状況を甘受するわけがない。』

 


。10 変わらぬもの

 エルスロッドは、それから死んだように、数時間、眠り続けた。ここ数日の緊張と睡眠不足、そして昨日の一方的ではあったが激闘で彼の体が何より睡眠を必要としていたからだった。


「お父さん、起きて。起きて」


 シェリルの彼を呼ぶ声で目を覚ました。そこにアンの姿があるのに気付き驚いた。


「王女様」


 彼はそう言って、起きようとした。家来である以上、ベッドで横たわったままの姿で王女であるアンを迎えるわけにはいかない。しかし、彼の意志に反し、体が全くいうことを聞かなかった。そうした彼を嘲笑するようにアンが彼に話しかけた。


ホント、情けないわね。助けるんじゃなかったわ」


 王女の側にいるシェリルまで「そうだ、そうだ」と大きく頷いていた。なかなか死にそうにない父親は、娘のこのつれない行動を目にし、体以上に心が傷つけられてしまったそして、これに追い討ちをかけるかのように、二人の集中砲火を浴び続けることになってしまった。この絶体絶命の状況からエルスロッドを救ったのは、彼を死の淵の一歩手前まで追い込んだ親友・ジェラルドの登場であった。


「この野郎、俺を殺す気か」


 ジェラルドが部屋に姿を現わすや否や、エルスロッドはそう詰問した。彼もこの時点では、自分が囮にされたことに気が付いていた。裏切られた訳ではないが、何も告げられぬままに、ジェラルドの手のひらの上で踊らされたことが許せなかった。


 そこで、彼は、その理由を尋ねるべく、さらに質問をしようとした。だが、それを制するかのように、ジェラルドが涼しい視線を投げかけてきた。『シェリルの前でそんな事言っていいのかい』という目で見つめていた


 シェリルを心配させないために、エルスロッドは口をつぐむ以外なかった


 そして、シェリル瀕死の父親をほったらかし、アンとジェラルドの争奪戦を激しく繰り広げている様子を見て、大きなため息を一つついた。



シェリル 第十三章 続き [シェリル]

。4 夜討ち


 

 予期せぬ来訪であったが、ジェラルドは気を悪くした様子を見せることなく、快く二人を出迎え、そして、二人を客室へと案内した。


 シェリルは、いつものように、子犬のようにジェラルドにまとわりつき始めた一生懸命に甘えた後、満足したようにジェラルドの膝の上に腰を下ろした。ここは、幼いシェリルだけの指定席であった。そして、再びジェラルドにじゃれ始めようとした。その様子を、エルスロッドはあきれた表情で見守るしかなかった。しかし、シェリル、おかあさんの部屋に行って、おにいちゃんを待っていてね」というジェラルドの言葉がシェリルのこの行動を阻止した。


 一方、シェリルは、ジェラルドのこの言葉を聞き、歓喜に身を震わせた。そして、ジェラルドに未練なさそうに、そそくさと部屋を出て行こうとした。


「ちょっと待っ、シェリル!!


 シェリルのたくらみを敏感に察知したらしく、エルスロッドがシェリルにこう尋ねた。


「おまえ何処行くつもりだ」


「おかあさんの所」


 シェリルは、『ばれちゃったかな』と思いつつ、悪びれる様子を見せることなく、そう答、父親をごまかそうとした。


「嘘つけ。お前はジェラルドの寝台に潜り込むつもりだろう。それは、おまえの言う『端(はした)ない』ことじゃないのか


 予期せぬこの反撃にシェリルが一瞬たじろぐ様子を見せた。まさか父親が『端ない』という言葉で反駁するとは思ってもいなかったからであるそこで、彼女は『端ない』ことのリストを心の中で検索し始めた。幸いなことに、この項目は彼女のリストには入っていなかった。そして、 勝ち誇ったようにこう断言した。


「うん『端なく』ない」


 エルスロッドは、彼女を呆れた様子で眺め、「勝手にしろ」と捨て台詞を吐いたそして、シェリルは「うん。勝手にする」と父親に言い残し、いそいそとジェラルドの寝室へ向かっていった。


「何かあったのかい


 ジェラルドが、ぐったりとうなだれるエルスロッドにそう質問してきたエルスロッドの方もジェラルドのこの言葉を聞き、真剣な表情に戻った。


「賊に襲われた」


「君がかい


 何かと敵の多い彼のことである。ジェラルドの質問は当然であった。


「シェリルがだ」


 彼のこの返答はジェラルドにも意外なものであったらしく、珍しく、ジェラルド考え込む様子を見せた。これまでに前例のない速さで異例の昇進を遂げたエルスロッドならともかく、ジェラルドにもシェリルが狙われる理由が思い付かなかった様子で、彼にこう尋ねた。


「理由に心当りはあるのか」


「ありすぎて、分からん」


 エルスロッドは、事実、これまで幾度となく生命を狙われたことがあった。それを踏まえた軽口であった


「そうかシェリルは預かろう」


 頼もしい親友の言葉に、エルスロッドは安堵した。ここなら、誰も手を出せない。エルスロッドは「済まない」と言って、部屋をでて行った。


 

。5 添い寝

 

 ジェラルドの寝台に潜り込み、シェリルは彼の訪れを待った。しかし、なかなか姿を現わさないので、「おにいちゃん、遅いなぁ」と不満の言葉が何度も彼女の口についたそして、しびれを切らし、彼の温もりが微かに残る辺りに頬ずりし始めた


「シェリル、ごめん」


 ジェラルドのこの言葉で我を取り戻したシェリルは、自身の狂態をジェラルドに見られたのではないかと一瞬たじろいだ。しかし、ジェラルドの浮かべる柔和な表情から見咎められていないことを確信すると、「おにいちゃん、早く。早く」と、ジェラルドに手招きしながら、自分の待つ寝台に一刻でも早く来るようにと促したジェラルドが寝台に入ると、。シェリルは「おにいちゃん、大好き」と言い、再び彼の首元にキスの嵐を降らした。

 

。6 特捜班

 

 シェリルが襲われたというニュースは、翌朝、早くに、アンの耳にまで届けられた。そして、この知らせを受けると、アンの顔色が一変した


 『お兄様、私を疑っているのかしら』


 シェリルが襲われたとう事実も衝撃ではあったが、それ以上に、このことの方がアンの懸念であった。


『この事件の最有力の容疑者は、誰がどう考えたって、私じゃない』


 ジェラルドを巡って熾烈なバトルを繰り広げているシェリルを襲う動機が、アンには十分すぎる程あったのだから


『どうしようきっとお兄様は私の事を疑っているわ』


 実際に暗殺に関係している訳ではないが、ジェラルドに髪の毛一筋ほどでもそのように疑われることが彼女には耐えられなかったまた、この知らせのほかに、シェリルがジェラルド邸に避難しているという情報も彼女のもとに届けられていた。シェリルがこの機会を最大に利用することが、彼女には何とも耐え難かった。


『そうよ、自らの手で、この濡れ衣を晴らしましょう。捜査の進展をここで悠長に待ってなんかいられない


 そう決心したものの、具体的な方策が浮かばなかった。彼女の側に控えているのは女性だけであり、とても犯人捜査など出来るはずもなかった。男の協力が是非とも必要であった。王女であり、彼女に忠誠を誓う者は多い。その中から頼りになりそう人物を思い浮かべてみたが、この任に堪えうる人物が見当たらなかった、どうするべきか考えあぐねていたが、天啓のごとく、一人の名が浮かんだ。しかし、の選択肢は容易に受け入れられるものではなかった。そうは言っても、背に腹はかえられないらしく、アンは侍女に命令した。


「エルスロッドを呼んで来なさい」

 

 突然王女に呼び出されたエルスロッドであったが、呼ばれる理由が思い付かなかった。夏の短い間、彼女に近侍する機会はあったが、王都に戻ってからは、顔はおろか姿すら見ていないのだ。彼は、腑に落ちない思いで、王女のもとへと駆け出していった


 彼が部屋に入ると、アンが自分に挨拶しようとエルスロッドを「挨拶は結構」と軽く制し、そして、彼に近くに寄るように命じた。


「シェリルが狙われたそうね」


 アンのこの言葉を耳にし、エルスロッドは表情を見せ。この事を知るのは、犯人を除けば、彼とジェラルドだけのはずである。にもかかわらず、社会から隔絶された生活を送っているアンがこのことを知っていたのだから。誰がこのことを王女に知らせたのか。そもそも、どうして知りえたのか。エルスロッドは、このことについて忙しく頭を働かせた。


 そんな彼をよそに、アンから


「そこで、是非、おまえの力を貸して欲しい。私の命に従うように」


という命令が下った。


 国王そして王女に忠誠を誓う少年騎士は、恭しくこの拝命を受けた。かくして、「シェリル暗殺未遂事件」の特捜班が発足した。

 

。7 舞台裏

 

 特捜班の懸命な努力の甲斐なく、事件の真相は依然として謎のままであった。指令塔であるアンは、博識で天才肌の才女ではあったが、事件捜査に関しては全くの素人であったのだから当然である。しかも、未だ年齢十二歳、何より、経験が圧倒的に不足してい。また、彼女の手足になって働くエルスロッドにしても事件の捜査はこれが初めてであり、彼女に適切なアドバイスを与えることが出来ないでいた結果、アンに叱咤される毎日が続いていた。


 アンは、捜査を開始して一週間になると言うのに、捜査になんら進展がみられないのに焦れていた。そこに運悪くエルスロッドが戻ってきた。


「それで、何か手がかりは見つかった」


 エルスロッドは、アンの以下にも不機嫌な声を聞き、身をすくませた。そして、恐る恐るアンに報告を始めた。


「ナイフのですが、やはり出所は分かりませんでした。お力になれずに申し訳ありません


「それで、毒の方はどうだった」


 アンのこの言葉でエルスロッドは、その大きな体を、さらに、小さくすくませた。エルスロッドの姿を見て、彼の今日一日の成果がなにも無いことを知ったらしく、アンから「今日はこのまま帰るように」と命じられ、エルスロッドは王女の部屋を後にした。


 こんな二人であったが、成果がまるで無かった訳ではない。ジェラルド邸近辺の警戒に当たっていたときに、偶然だが盗賊を捕らえたり、また、シェリルの件とは全く無関係だが、ある暗殺団の本拠地を発見したりした事もあった。エルスロッドのこの活躍により、王都の町は二人の活躍の話で賑わっていた。


 しかし、これはアンの意図するところのものではなかった。捜査は極秘裏に行われる必要があったからである今朝も父親である国王に「王女が警察権を犯すつもりかと説教はされるし、警察当局からは何かと煙たがられいた。王女といえども出来ることは限られているのだ。アンは、自身の手足となって働く人間の大切さ、そして、何よりも、優秀なブレーンの必要性を強く認識した。そうは言っても、すぐに、そのような存在が見つかるべくもなく、アンは小さなため息を一つついた


「アン、いるか」


 聞き覚えのある、その声を聞くと、アンは、部屋の入口の方に駆け出した。


 思った通り、その声の主はジェラルドであった。
 今回の事件が発生して以来、ジェラルドはこの王宮に姿を見せなかった。その事は、アンには自分が疑われている証明のように思われた。逢えないことも辛いことであったが、それ以上にこの事の方が、アンにとっては、はるかに辛かった。そこにジェラルドが姿を現わしたのである。アンはジェラルドの胸に飛び込んだ。


「熱烈な歓迎だね。僕も嬉しいよ」


 普段と全く変わりの無いジェラルドの態度が、彼女には嬉しかった。今まで胸に詰まっていた思いをジェラルドに打ち明けた


「僕がアンを疑うはずがないだろう。それとも、何かやましいことでもあるのかい」


「お兄様の馬鹿」


 拗ねたように、アンは顔をうつ向かせた。


「ところで、随分張り切っている見ないだね。町中の噂だよ」


 ジェラルドからシェリル暗殺の首謀者としての嫌疑をかけられていないことを知り、アンは安堵した。それと同時に、アンの明晰な頭脳が忙しく働きだした。それはそれで残念なことであるけれど、こうして自分に逢うためだけにジェラルドがやって来たのではない。彼女の冷徹な知性がそう結論をはじき出した。


「お兄様、何を企んでいらっしゃるの


アン、何を言っているんだ。僕はただアンに逢いに来ただけだよ」


 いささかも悪びれた様子を見せないジェラルドの笑みを見て、これ以上聞いても何も答えてくれないのは明らかであった。そこで、アンは、彼の掌の上で踊る役の代償を要求することにした。道化を演じるのだ、その権利が自分には十分にあるはずだと、アンは確信した。


「お兄様、今日こちらでお休みになるんでしょう」


「悪い子だな。でも、大人しくしているんだぞ」


 アンは彼の手を引き、寝室へと案内し。そして、彼に抱きつき、そのまま寝台にジェラルドを押し倒した。

 


シェリル 第十三章 [シェリル]

十三章 捜査


13。1 夜這い

 

「シェリル、今日はお父さんと寝よう」


 エルスロッドは、朝食を取りながら、シェリルにそう哀願した


「いや、シェリル一人で寝るの」


 シェリルはつれなく父親の懇願を撥ね付けた。シェリルは、夏の離宮で「端(はした)ない」ことを、アンとエミリアに教えて貰い、それを忠実に実行しているのである。最初の頃は父親と離れて寝るのはやはり寂しかったが、孤児だったシェリルはもともと一人寝に慣れていた。このため、二日、三日と日を重ねるうちに、大して苦には成らなくなった。また、元気に溢れるエルスロッドはとにかく寝相が悪かった。子供のシェリルより寝返りを頻繁にうち、しかも、お腹の上に足を上げられたりと、シェリルはおちおち眠れなかった。このことも原因していた。


 しかし、こうした事情を知らないエルスロッドは、「どうして、お父さんと一緒に寝てくれないんだ」未練たらしく言い募った。


「だって、『端ない』もん」


 シェリルは憶えたてのこの言葉で父親のたってのお願いを拒絶した


 しかし、この言葉の「端ない」の基準がエルスロッドにはいま一つ理解が出来なかった。確かに、父親とは言え、異性である以上シェリルの言葉は一理がある。


「おまえ、お父さんと一緒にお風呂に入っているじゃないか」


「シェリル、お父さんと一緒にお風呂入るの好きだもん」


 シェリルは、自身の快感原則に従い、そのように即答した


 エルスロッドは、これ以上議論しても無駄なことを知り、大きなため息を一つついたそして、それならば、彼もシェリルのとっとように自身の快感原則に従おうと心の中で思った何しろ、子供のシェリルの寝る時間は彼より早いのだから。


「だめだよ、お父さん。こっそり、シェリルのお蒲団には入ってくるのは


 父親の目論見を察知し、シェリルは釘を刺した。シェリルは、これまでに、彼女は、何度も父親の夜這いにあっており、父親の行動の予測は容易なことであったから


 エルスロッドは、すっかり落胆し、恨めしそうに娘の顔を見た


 ここで目を合わしたら駄目なことをシェリルは知っていた。だから、シェリルにぷいと顔を背けられてしまった。万策尽きたエルスロッドは、小さく嘆息した。

 


その夜、エルスロッドは、シェリルと離れ、寝台に疲れた体を横たえていた。いつもならもうとっくに眠っている時間であったが、彼は目をらんらんと輝かせいた。


『後悔するなよ、シェリル』


 そう心中で呟くと、エルスロッドは多少の後ろめたさを感じながら、足音を忍ばせて、シェリルの寝室へと向かった。そして、音をさせることなくドアを開き、右足を一歩踏み入れたとき、何か紐のようなものに足がひっかった。それと同時に、夜の静寂を破るように、鈴が鳴り響いた。


 その鈴の音に目を覚ましたシェリルが「お父さん」と言ってから、鬼のような形相をして睨みつけてきた。


13。2 暗殺者

 

『なんで、俺が』

 

 音を忍ばせ、標的に近付きながら、男は心の中でそう悪態をついた。彼は、暗殺、諜報などを請け負う闇の組織の人間であったが、暗殺は専門ではなかった。それにも関わらず、「暗殺」の命が彼に下りたのである。組織の命は絶対。逆らえば、そこに待つのは確実な「死」であった。彼は不承不承ながらこの仕事を引き受けた。そして、今、心中で不平を何度も繰り返しながらも、確実に一歩また一歩と近付いて行く。「暗殺」は専門でないとはいえ、彼もプロであり、そこに抜かりはない。一歩また一歩と足音を殺し、「標的」に近付いて行った。


万が一にも、失敗はない。「標的」の動静は調べ尽くしていた。そう、「失敗」は有り得ないはずであった。



 一方、その頃エルスロッドは、シェリルから寝室を追い出され、眠れない夜を過ごしていた。そして、誰が紐と鈴のトラップをシェリルに教えたのか、このことについて考え始めた。


 真っ先に王女であるアンの名が浮かんだが、まだ十二歳の子供であり、このようなトラップを知っているとは思えなかった。そして、次にアンのそば近くに絶えず仕えているエミリアの名が浮かんできた。それと同時に、彼女が自分の失敗を優雅にあざ笑う姿が頭の中で髣髴された。


『あの女狐め、今度会ったら、ただじゃ置かない。』


 エルスロッドは心中でエミリアへの復讐を硬く決心した。その時のことである、彼は部屋の外からただならぬ気配を敏感に感じ取った。そして、枕元に置いている剣を静かに引き寄せると、寝台から出て、ドアの側に立ち、賊の侵入を待ち受けた。賊の微かな気配が近付いて来る、そして止まった。タイミングを計っていた彼の表情が変化した。


『俺じゃないのか』


 彼は慌てて部屋から出た。


 

 その男は、綿密に立てた計画がいとも簡単に瓦解したことを知り、慌てた。それが彼の判断力を鈍らせた。そして、男は手にしていた暗殺用のナイフをエルスロッドにめがけ投げつけた。それには暗殺用の毒薬が塗ってある。掠り傷一つつければ、それで事は足りる。こは中和することが出来ない、必死の猛毒なのだから。


 至近距離からの攻撃であり、外れることはない。その男はそう確信していたが、あっけなく、かわされてしまった不意打ちを受け狼狽したために彼の手先が微妙に狂ったのだ。その男はこれからどうするか一瞬だけ悩んだ。そして、床にカーンとナイフが落ちる音を聞くのと同時に、男は決断した。男は一直線に逃げだした。相手は年若いとは言え騎士である。しかも、かなりの剣の腕前である。闇討ちや不意打ちならともかく、生々堂々と勝負できる相手ではないのだから。

 


 一方、エルスロッドは、一目散に逃げ去る男にあっけにとられてしまった。このまま追いかけるかどうか一瞬考えたが、追いかけることを即座に断念した。相手は逃げ足の速いプロの刺客であり、追いかけても無駄のように思われたからであるまた、賊の正体を確かめるよりも、シェリルの身の安全の確保を図る方が先決であったそこで、彼はシェリルの寝室に入った。


「お父さん、何しに来たの」


 先程の夜這いに失敗したにもかかわらず、さらに夜這いをかけようとする父親を、シェリルが手荒く出迎えた。


 エルスロッドは、シェリルが自分をにらみつけるの見て、ほっとした。それと同時に、何か悲しいものを憶えた。


 一方、シェリルは、今度は、なかなか彼が自分の部屋から退去しないので怒り出した。


「どうして、お父さんはいつもそうなの。いったい、シェリルの部屋に何しにきたわけ」


 真実を打ち明ける事も出来ず、彼は、恐縮した様子で娘の説教を甘んじて受けた。そして、シェリルの説教が終わるのを待ち、「ジェラルドのとこ、行くぞ」とシェリルに言った。


 その言葉を耳にするや否や、それまで激怒で真っ赤になっていたシェリルの表情が一変した。そして、寝台から飛び出し、喜々とした表情で服を着替えだした。

 


13。3 一室で

 

 男は震えていた。男暗殺の失敗を報告し、彼に下される処罰を待っていた。床を見ながら、その判決を待っていた。


「そうか、失敗したか」


 男は緊張した。ここに来るまで、何度も組織から逃げだそうと考えた。しかし、それが悪あがきである事を知っていた、自分に差し向けられるであろう刺客から逃げきれないことを知っていたからであるそして、一縷の希望を抱き、組織の寛大な処置を願ってここに戻ってきたのだ。


「仕方ないな。暫く、身を隠せ」


 組織の長は、そう言うと、彼の方に金の詰まった袋を投げつけた。それが床に落ちる音を聞き、男の表情から一斉に血の気が引いた。それは組織がよく使う手。組織に長年仕えてきたその男は、その事をよく知っていたから。


「安心しろ。刺客は差しむけん。王都からしばらく離れておれ」


 その言葉を聞き、男はようやく安心した。そして、床に落ちた金を拾い、逃げ去るように部屋から出て行った。


「甘いのではないか」


 男が出て行ったことを確かめ、一人の男が入れ替わるように部屋に入ってきた。長は、振り向きもせず、そのに「大丈夫です」と言葉だけで返事した


 しかし、依頼主らしいその男は、その処置に不満があるらしく、彼が抱いている危惧を打ち明ける。


「証拠を現場に残してきたそうではないか」


「絶対に出所は突き止められません」


 ごくありふれた市販のナイフである。その出所の特定など出来まい。特別なのはナイフではない。そこに塗られた毒こそ特別なのだ。そして、この毒の製法を知るのは彼一人であり、毒の特定さえ誰もできない。万に一つに誰が狙ったかは分かるはずがないのだから


 それに、人材は宝だ。養成には莫大な時間と資金が必要。一度や二度しくじったからといって、そう簡単に始末する訳にはいかない。消耗品ではないのだ。それに、あの男ほど忍びに長け、逃げ足の早い男はこの闇組織にはいない。殺すには余りに惜しい人材だ。始末は、いざと成ってからでも遅くはない。


 また、依頼されたのは、娘の暗殺ではなく、エルスロッドに脅しをかけることが依頼であった。だから、わざわざ、あの男を選んだのだ暗殺に失敗することをことを見込んでの人選であり、そして、あの男はの目的を果たしてきたのだ。証拠を残してきたのは誤算ではあったが、その証拠とて証拠にはならない。彼には、何も心配することはなかった。


 依頼主の男は、長のその言葉を聞いて安心した。幾ばくかの不安は抱いていたが、目の前の男は、敵に回すには余りに危険な相手であった。契約が完了した、二人には依頼主と請負の関係は消滅しており、余計なことを言い、これ以上刺激する訳にいかなかったそして、その男は、テーブルの上に約束の金を置き、部屋を出て行った。


シェリル 第十二章の後半 [シェリル]

12。4 草の海

 

 翌朝、三人は離宮近くの草原へとピクニックに出かけ。シェリルは、自然に囲まれるこの離宮近辺の景色にすっかり夢中になっていた。一方、そんなシェリルの姿を宇宙人でも見るような思いで、アンは見つめていた。


 およそ十分程の徒歩の後、一本の大きな木下で三人は腰を下ろした。高原とはいえ、初夏の頃である。太陽の光は何も遮るもののないこの高原では意外に強いものであった。そのうっすらと汗ばんだ肌に、高原の澄んだ少し涼感を含む空気は心地よかった。突然一陣の風が起こり、それがシェリルの麦わら帽子を青い空に舞上げた。「あッ」とシェリルが小さな声を上げ、その行方を目だけで追いかけ。空に舞上がった麦わら帽子は、青い空に溶け込むように、その姿を消していった。


 そうしたシェリルを、アンが現実の世界へと引き戻した。


「シェリル、あんた何やっているの。しっかりしなさい


「ごめんなさい」


 まるで実の姉妹の様な光景に暫し目を細め、エミリアは考え


 このこの景色に最も似合うのはアンであろう。風に優雅にたなびかせる金色の美しい髪。この美しい空を思わせる青い瞳の色。そして、澄んだ空気を象徴するかのような透ける様な肌の色。だが、この美しい風景を象徴するかのようなアンの行動がこの絵画をすべて台無しにしている。この場で最も詩的な存在であるべきであるアンの散文的な行動を目にし、彼女は、思わず、『王女様』と嘆息した。


 エミリアのその思いを知らず、アンは軽率なシェリルの行動を咎め、説教をなおも続け。このままだと、シェリルを泣かしかねないと思い、エミリアは仲裁に入った


「王女様、その辺でよろしいのでは。シェリル様も、十分反省なさっている御様子ですし」


 それでも気が納まらないらしく、アンは「シェリルはもう」と付け加えた。シェリルは反省した様子で「ごめんなさい」ともう一度誤り、それで一件落着し、二人はいつも通り仲良くしだした。


 三人は木陰で暫しその風景を楽しむ。エミリアは、アンがこの景色に飽きる前に、二人にこう提案した


「このまま景色ばかりを見ていても仕方ありませんわ。どうでしょう、詩でも書いてみませんか」


昨日以来詩に関心を示しだしたシェリルが真っ先にその提案に飛びつき、「うん、わたしやる」と返事をした。それを見て、不承不承アンも承諾した。二人は背を向けあい、それぞれ詩作を始めた。


 アンは、意外に詩に対しての造詣は深い。しかし、それが返って彼女の創作に災いした。何か書こうとすると、彼女の頭の中に先人の一句が浮かんで来てしまうのだ。それを打ち払おうとすると、また他の一句が浮かんでくる。彼女は自由な発想で詩を作ることが出来なかった。書いては消し、書いては消し、それを何度も繰り返した。彼女自身、自分に詩才がないことは知っていたが、これほど詩作が難しいものだとは思わなかった。そこで、遥か東方の国の古詩を真似た詩を作ることにした。これなら、自分以外の誰も分からない。規則も、文法もろくに知らないが、あやふなな知識を頼りに何とか捻り出した。

我至青海原

薫風香如君

顧我唯独人

思故人瀟然

 

 『我ながら、良い出来だ』と一人ほくそ笑んだ。破格であることは承知していたが、それでも満足した表情を浮かべた。そして、満足気にそれをエミリアに渡した。


「何ですのこれ」


 エミリアは、見たこともない文字で書かれた、その詩を見てそう尋ね。アンはそれを見て、満足気に説明を始めた。


これは東方の国の古詩なのよ


 そして、得意満面、アンはその説明を始めた。


「それは、分かりました。ところで、どんな事を書かれたのですか」


 アンは更に詩の解説を始めた。エミリアは、何のことかチンプンカンプンであったが、十二歳の少女が詠むべき内容のものでないことだけは理解できた。


 アンの方もエミリアの顔色からその事を読み取ったらしく、詩作に没頭しているシェリルの方に視線を移した。


「シェリル、どう。できた。」


 アンはそう声を言うとシェリルの書いた詩を覗き込んだ。


「おねえちゃん、見ないで」


 シェリルは慌てて隠そうとしたが、それよりアンの手の方が速かった。ひょいとシェリルからその紙を取り上げた。


 習い始めたばかりの稚拙な文字で書かれた幼稚な詩であった。とても、アンの目に叶うものではなかったが、「よく書けているじゃない」となおざりに褒め言葉をかけた


 最初のうちは不安そうに、恥ずかしそうにアンの顔を見上げていたシェリルであったが、アンの褒め言葉を聞き、嬉しそうな、だが少し照れた表情を見せた。


「私にも見せて下さい


 アンは、いかにも関心なさそうに、エミリアに手渡した。それを受け取り、エミリアは詩の朗読を始めた。

 

はらっぱ

はらっぱ

ぜんぶはらっぱ

わたしはいるの ひとりでいるの

 

かぜがふくの

とりがうたうの

はらっぱそよぐの

はらっぱなびくの

 

わたしはいるの

みんながつつむの

みんながだくの

わたしはいないの

 

はらっぱ

はらっぱ

ぜんぶはらっぱ

わたしはいるの みんなといるの

 

 アンはその朗読を聞いて、負けたと思った。見たときと違い、声に出されてみると、うまく表現は出来ないが、シェリルが感じた何かを彼女もこの詩から感じとることができた。そして、この詩を聞いてから、彼女も彼女を取り囲む「自然」に親近感を憶え始めた。『私の完敗』と彼女は思った。


 しかしアンはアンであった。彼女の感動とは無関係に、彼女の理性が勝手に活動しだした。彼女の理性がシェリルの詩の独自の解釈を始めた。この詩から何か存在論的な意味を見い出そうとしはじめた。この詩に深遠な真理が隠されているように、勝手に誤解し、アンは考え始めた


 確かにシェリルの詩には、形而上学的な問題を含んでいるかのように見える箇所がある。「いる」、「いない」という語句が多用されているからであろう。しかし、これはシェリルの語彙の少なさに起因するものであって、シェリルが意図して使ったものではなかった。シェリルは他に言葉を知らないから使ったまでで、他に適切に表現出来る言葉を知っていたなら、それを使用していたであろう。また、シェリルは、いま感じていることを率直に詩に詠んだだけで、何等かの問題提示をした訳でもなかった。いくらアンがこの詩から何等かのメッセージを読み取ったとしたところで、それは全くの誤解である。また、この詩から読み取れるはずもない。考えるだけ、無駄なことであった。


そんなアンをよそに、エミリアはシェリルの詩の感想を述べる。


「本当に、素敵な詩です事。ところで、題はなんと言うのですか」


 シェリルは少し考えて「はらっぱ」と答えた。直さい的ではあるが詩の題名には、ふさわしくない。エミリアは、少し考え、「『草の海』は如何でしょう」とシェリルに提案した。

 

 


12。5 賓客

 

 ピクニックから帰ると、三人は、しばらくの間、アンの居室でお茶など飲みながら談笑し、くつろいでいた。そこに、一人の侍女が現れ、賓客の訪れを告げた。その瞬間、アンとシェリルが互いに罵り合を始めた。


「おねえちゃん、ここで待ってて。シェリルが迎えに行く」


あんんた、言っているの。シェリルこそ、ここで待ってなさい。私のお客さんなんだから。あんたはここで、エミリアとおとなしく待っていなさい」


 しばらくの間、二人はそうした押し問答を繰り返していたが、自分達が何か大切なことを忘れていたことに気が付き、一斉に走りだした。とはいえ、六歳と十二歳で勝負の結果は目に見えていた。


「おねえちゃん、待って」とシェリルはアンを呼び止めようとするのだが、アンはシェリルに構う事なく玄関に急いだ。それが王女として恥ずべき行為であることは十分承知しているが、この際気にはしていられなかった。アンはひたすら玄関へと急いだ。


「お兄様、逢いたかったわ」


 アンはジェラルドの胸元に飛び込んだ。ジェラルドを独占できるのは、シェリルが来るまでの間しか時間はないのだ。アンはジェラルドに懸命に甘え一方、ジェラルドは、人目を憚からない彼女の行為に些か閉口した様子を見せていたが、彼女のしたいようにさせていた。ジェラルドにとってもアンは目に入れても痛くないほど可愛いのであるから。


 それから送れること約三十秒程して、シェリルの姿現われた。シェリルは、ジェラルドがすっかりアンに独占されているのを見て、悔しさから涙が自然に浮かんで来た。それでも一生懸命走り続けた。


 一方、アンの方は、シェリルが走り寄るのを忌々し気に見つめていたが、シェリルの目に涙が浮かびつつあるのを見て愕然とした小さな子供の涙は最終兵器であったから。誰も幼児の涙には勝てないのだそこで、仕方なく、アンは大人の度量をシェリルに見せてやることにした。


「さあ、シェリルもいらっしゃい」


 アンは、シェリルのために少しだけジェラルドの体を空けてやった遅れてきたシェリルはこれで我慢するしかなかった。シェリルは、ジェラルドの腰の辺りに手をまわすとジェラルドの体に頬を擦り寄せ、その感触を楽しんだ。そして、自身のジェラルドへの愛情をその行為を通じて一生懸命に表現した。


 しかし、シェリルとは違い身長の高いアンが恋人の様にジェラルドの首に手を回し甘えている光景を、そして、されだけでは満足できず彼の頬や首許にキスを何度かしているのを見て、我慢が出来なくなってしまった。自身、卑怯だとは思うが、シェリルももう綺麗事を言っていられなくなり、奥の手を使うことにした。


「おにいちゃん、シェリルも」


 シェリルは、涙混じりの目で自分の苦境をジェラルドに訴えた。


「アン、済まないが、シェリルに代わってくれ」


 その言葉でパッと明るくなるシェリルとは対照的にアンの表情がみるみる曇っていった。シェリルを呪殺するかのような強い視線でにらみつけてから、彼女はジェラルドから離れた。そして、シェリルがジェラルドに抱き上げられ彼に甘える光景を眺めていたが、そのことが不愉快になるのに気が付き、視線を二人から逸らした


 そして、アンは「これは、王女様、ご機嫌麗しいご様子で」と自分に挨拶する声に気づいた。何度か聞き憶えのある綺麗な声ではあったが、それが誰なのか確かめるべく、アンは声のする方に視線の先を向けた


 それはエルスロッドであった。騎士風に片膝を地に付け、恭しく挨拶をしていた。余りに不意であったため、うっかり、二人の目が遭ってしまったその瞬間、彼女の顔から血の気が一斉に引いてゆく。視線が合ってしまった以上、彼女はエルスロッドの挨拶を受けなくてはならならなかったのだ。ただの挨拶ならまだましであったろうが、今エルスロッドが行っているのは騎士としての正式な挨拶であり、王女であるアンもそれに正式に応えなければならなかった。アンは天を仰いだ。そして諦めたように、彼女の右手を彼に差し出した。


 彼女は、自分の軽率さを呪いつつ、エルスロッドが自分の右手に口付けするのを見。それは一幅の絵の様な光景であったが、しかし、アンにとっては、永遠に続く地獄の責め苦のように思われた。そして、妙に時間がゆっくりと流れるように思われた。手袋越しとは言え、その感触は不快であった。


「アン、なかなかお似合いだぞ」


 二人の挨拶の一部始終を見ていたジェラルドが、そう言って、アンをからかい始めてきた。シェリルまで「そうだ、そうだ」合槌を打っていた。それを目にし、アンの表情は自然と厳しいものになっていった。


 出迎えの一騒動も終了し、ジェラルドとエルスロッドを加え、都合四人に成った一行はアンの居室へ向かって進んでいった。その間もエルスロッドは王女をエスコートするべく、彼女の側に控えていた。騎士の当然の職務ではあるが、これが彼女にこれ以上ないという不快な感情をもたらした。


 アンは、彼女の私室にまでエルスロッドがくっついて来るのに驚き、エルスロッドを咎めはじめた。


「なんで、あんたがここまでついて来るのよ」


 王女が騎士にかけるにしては、それは余りに無礼な口の利き方であろう。このため、彼女はジェラルドから「アン、失礼だぞ。エルスロッドに謝れ」という注意の言葉を受けてしまう。シェリルまでも、ここぞとばかりに、「そうだ、そうだ」と大きく頷いてみせた。それを目にし、彼女の腸は煮えくり返ったが、ジェラルドの言葉に従うことにした。


 だが、彼女が詫びの言葉をかけようとした時、それを制するかのように陛下の御命令ですから」とエルスロッドが返答した。


「陛下が」


 それは彼女にとって思いもかけぬ一言であった。だが、父親ではあるが国王の命であり、王女と言えども従わざるを得なかった。彼女は、大いに不服であったが、エルスロッドが近侍するのを認めた。


「そうエルスロッドを邪見にするな。良く見てみろ、こいつ、結構な美形だぞ


 

12。6 晩餐会

 

 アンは、その夜正式な晩餐会を開くことにした。アンとシェリルは正式な衣装に身を包んだ。シェリルにとって、これが初めての正式な晩餐会。彼女は、この四月間、公爵家への出入りしており大体の作法は身につけていたが、それでも初めての経験に対する不安と緊張とで、いつになく硬い表情を浮かべていた。そこに、エルスロッドが彼女を迎えるために入って来た。そして、シェリルを彼に割り当てられた部屋に連れて行ったシェリルは、父親であるエルスロッドが何故にその様な行動をするのか理解しかね、「お父さん、何処に行くの」と尋ねた。「俺の部屋だ」という言葉が返ってきたいつになく緊張した父親の様子を目にし、それ以上質問をするのがためらわれた。二人は何も言葉を交わす事なくしずしずと部屋向かった。


 部屋に着き暫くすると、支度が出来た旨を知らせる使者が現われた。シェリルは、父親に手を引かれ、晩餐会の会場に向かった。ジェラルドとアンは、既に席に着いていた。シェリルにはそれが意外なことに思えた。更に意外なことに、自分たち二人に与えられた席はアンとジェラルドの席から随分に離れたところあった。シェリルはその席に一旦腰を降ろしたが、エルスロッドに「おにいちゃんの所に行く」と言って立とうとしたとき、ぎゅっと二の腕あたりを握りしめられた。お前はお父さんと一緒に食べよう」。この言葉で、シェリルは、今、この席で、自分が二人のもとに行ってはならないことに気づいた。自分とアン、そしてジェラルドの間には、越えられない身分の違い、生まれの違いという壁が存在していることが幼心でも理解できた。


 晩餐会が始まった。整然と秩序だった世界。そこは身分と家の格式だけが支配する世界である。シェリルは、自分がアンとジェラルドに今は近付けないことを改めて思い知らされ、羨ましそうにアンの方を見た。だが、そこに座るアンの姿は、今までシェリルの知っているアンではなかった。


 気品に溢れ、優雅な所作をするアンの姿がそこにはあった。そして、今度はジェラルドの方に視線を向け。同様であった。彼女は何だか悲しい気分になってきた。そして、その悲しみを振り払うかのように、また、何かを諦めたように父親との食事を始めた。これだけ多くのお人がいるのに、まるで孤独な食事であった。自分達親娘二人だけがこの世界から隔離されているようにシェリルには思えた。そして、これほどの豪華な料理なのに、まるで砂をかむように味気ないものに感じられた。


 アンは、昼間自分が被った受難を一気に挽回するつもりで、この晩餐会を開いたのだ。シェリルエルスロッドの娘である限り、この場においては、自分にもジェラルドにも接近することはできない。二人だけの時間を確保出来


 最初の内は、ジェラルドとの食事は楽しいものであったが、次第に後ろめたさを感じ始めた。ジェラルドは言葉に表わしはしないけれど、アンのこの心無い仕打ちを非難したい気持ちでいるのであろう。その無言の抗議であろうか、いつも優しいジェラルドの所作が儀礼的なものに感じられたそして、アンもまた、シェリル同様にこの晩餐会が空虚なものに思えてきた。


この空虚さを解消する力を有しているのは、この晩餐会の主催者である自分だけである。アンは、晩餐会の半ばを過ぎた頃、意を決しシェリルを招くことにした。側に控える従者を呼び、その旨を告げた。それと同時にジェラルドがアンに微笑みかけた。そして、アンはシェリルが到着するのを待ち、シェリルにこう耳打ちした。


「良いこと。ここでは大人しくするのよ。じゃないと、あっちだからね」


 アンは。エルスロッドの方を見て、その視線で場所を指し示した。シェリルも、それを理解したように、コクリと小さく頷いた。


第十二章 草の海 [シェリル]

十二章 草の海

 

12。1 旅行

 

 シェリルは車窓から外の景色を見た。王都からだいぶ離れ、あたり一面を濃い緑が支配し出していた。田舎育ちのシェリルにはことさら珍しい風景ではなく、ごく見慣れた景色のはずであった。しかし、シェリルの目には、ことさら新鮮に映った。


 彼女が生活している王都は、比較的、緑に恵まれていた。しかし、その大部分は人の手による物で何処かあざとさがあった。いくら美しくても、そこには、何処か不自然さがある。手が加われば加わるほど、それは色濃く浮かんでくる。所詮は偽物の美しさと言ってよいのであろう。自然の、一見無秩序に見えるが、そのくせしっかり調和が取れた圧倒的な美しさ、そのような迫力がなかったこのため、シェリルには王都の人工的な自然は何処となく馴染めないでいた


 久しぶりに目にした本物の自然に、シェリルはすっかり魅了されてしまった。所少し変われば、そこには違った植生、生物相が見られ。シェリルはその植生の違いに驚き、また、村にいる頃には目にしたことのない花に目を奪われた。そして、感極まった様子で、時々、綺麗、「すっごい」など、自然の美しさを賛辞する言葉を繰り返すばかりであった。


 一方、同乗しているアンの方は、最初のうちこそ自然の美しさに感動していたが、都会人である彼女は、何処まで行っても変わり映えの市内景色にすっかり退屈していた。彼女には、シェリルのように、自然の些細な変化を見抜く力もなければ、自然に対する知識、共感が欠けていた。それは、二人の育った環境の違いがもたらしたものあって、二人の本来の資質差とうよりは、後天的なものである。


『いったい、何処が面白いのかしら』


 アンは、シェリルが自然を食い入る様に見つめ、時にに美しさを賛美するのを、信じられない思いで見つめていた。生まれ育った環境、感性が違う二人は、同じ景色を現に見ているが、その実、二人の目に映るそれは全く別物であった。アンは、退屈を紛らわすために、書物を取り出し、読み始めた。近ごろアンは、ある理由から、「薬草」に関心を示していた。


 この二人の守役として、エミリアがついてきていた。彼女は、この性格の異なる二人の様子を暫く注意深く観察していたが、彼女も一冊の詩集を取り出し読み始めた。馬車の中ゆっくりとした時間が流れはじめた。その時の流れを現実の物に戻したのは、やはりアンであったアンはエミリアの詩集に関心を示し、「エミリア、何読んでの」と尋ねた。


 エミリア、極簡単に詩人とその詩集の説明を始めた。いままで外の景色を眺めていたシェリルもいつしかエミリアの説明を聞いていた。まだ幼いシェリルには、エミリアの話す内容は理解不能であった故にそれを物語か何かと勘違いしたようで、「おねえちゃん、読んで」と詩集の朗読をエミリアにお願いした。


「畏まりました」 


 エミリア詩の朗読を始めた。形式的には文語の定型詩ではあったが、内容は「愛の歓び」の詩であった。早速アンがその詩の感想を述べた。


「何なのこの詩。よく発禁にならなかったはね」


 詩の直接の感想と言うよりは、為政者としての次期国家元首としての感想であった。性風俗がかなり緩い国ではあったが、それでもなお、この詩集の内容はかなり極どいものであった。少なくとも、十二歳の少女や六歳の幼女の前で声高らかに朗読する内容のものではなかった


「シェリル様、如何でした」


 シェリルにはこの詩は全く意味不明であり、感想など述べる事など出来なかった。それでも、しばらく考え、「綺麗だった」と全く意味不明な感想を漏らした。


 その瞬間、アンとエミリアは笑い声を上げた。シェリルは何がおかしいのか分からずキョトンとした表情をしていたが、やがて二人の笑い声につられるように彼女もまた笑いだした。


 その笑いが収まった頃、エミリアがシェリルの感想の理由を聞いた。つい最近まで、詩はおろか、文字さえ知らなかったけれど、シェリルの耳に、雅語をふんだんに使用した、韻をきちんと踏んだその詩が、心地よく聞こえたからである。シェリルは、彼女の知る貧弱な語彙の中でそのことを一生懸命説明した。時に、身振り手振りを交えて、その事を熱弁した。


 シェリルの言いたい事が大体分かったところで、今度はアンに感想の理由を尋ねた。彼女はアンがどうしてああした感想を言ったのは聞かなくても理解できたけれども、頭でっかちなアンを、ちょっとからかってみたいと思ったからだ。


「それ官能の詩でしょ。不謹慎よ。もっとプラトニックであるべきよ」


 正鵠を射た批評でったが、同時に、いかにも頭でっかちの夢想家、アンにふさわしい批評であった。しかし、それは借り物の言葉である。アンが本当にこの詩の意味を理解した上で、自らの言葉で紡いだ批評ではなかった。その意味において、この感想は落第であろうその点、シェリルの感想の方が遥かに本質的である。シェリルは、この詩の意味こそ理解できなかったが、この詩のリズム、息吹と言うものを感じ取ったのだから。


 エミリアは、アンのその「青さ」をちょっとからかってみたい衝動に駆られた。


「王女様。本当にこの詩を理解なさっているのかしら。これはお隣のエストランデの宮廷詩人のものですのよ」


 彼女の発した言葉がアンの自尊心を傷つけと同時に、隣国の名が彼女の対抗心をメラメラと燃え上がらせそして、アンは、エミリアが意図した通り反論した。


その言葉を待って、エミリアは彼女に詩の一節を読み、その意味を問うた。アンは「それは、それは」と繰り返すばかりであった。


「ほら、ご存じない」


 アンは悔しさを堪えた。その詩句に意味は分かっていたが、十二歳の少女がとても口にすることの出来る言葉ではなかった。その言葉を口にするぐらいなら、知らない振りをした方がまだましであった。それでも負けず嫌いの彼女の口が勝手に動き出した。


「知っているわよ」


「本当かしら」


 なおも執拗にエミリアがアンに迫った。それのみか、シェリルまでアンの顔をじっとのぞき込んできたこのため、羞恥心でアンの顔がみるみる赤くなったいった


「王女様は、本当に初(うぶ)御座いますね


 その言葉を聞き、自分の心がすっかり見透かされていることを知り、ますますアンは顔色を赤く染めた。

 

 


12。2 離宮

 

 諸侯連合の、所詮、飾り物に過ぎない王家ではあったが、それでも、一応一国の王家であり、離宮もいくつか持っていた。一行が向かっているのは夏の離宮と言われる、高原にある湖に隣接する別荘であった。かつては、避暑のために王家と陪臣一同が訪れたが、今は王家と極一部の近臣だけが夏の短い期間だけ利用している。



馬車からその離宮の姿が見えたとき、シェリル「綺麗」と叫んだ。アンにとっては、もう見慣れた光景であり、さして感慨すものではなかったが、そこで、改めて見ることにした。


 湖畔に開けた地に存在する白亜の屋敷。白樺の木とその色はマッチングしており、また、深い青の湖とのコントラストも見事であったしかし、それより、透明度の高い湖に映る、空の濃い青に浮かび上がる白い建物の方が遥かに美しかった。これは、アンにとってちょっとした発見であった。実物より虚像の方が美しいこともあるのだ。真実が必ずしも美しいとは限らないのだ。アンは少し哲学者になった気がしていた。


「シェリル、どっちが綺麗だと思う」


お空(そら)」 


 シェリルは勢いよくそう答えた。アンは、シェリルの返答に失望してしまった。てっきり同じ物を見て、感動しているものと思っただけに、アンは自分の感動がなんだか陳腐なものに思えてきた。「綺麗で御在ますね、湖に映ったお城の姿


 エミリア主人の意を汲み取りそう発言した。アンは「ありがとう」とだけ答えた。そして、シェリルが口にした空を見上げた。



王都と同じ空のはずなのに、そこに広がっている青空は全く別物であった。高原の清浄な空気ゆえに、吸い込まれそうな程の透明感をもった青空であり、そこには夏特有な真っ白な雲が浮かんでいた。人工物の一切存在しない風景。圧倒的な存在感で彼女の心をうった。それは、如何なる言葉でも形容できない風景であった。アンもシェリル同様にしばらく放心したように「お空」を眺めた。


 しかし、アンはシェリルには成りきれなかった。しばらく停止していた彼女の頭脳が活動しだした。


アンは考える。最初に自分が見て感動したのは、「そら」の映し出した虚像だったに違いない。それはそれで、確かに美しく、詩的な美しさがあった。しかし、「そら」の本当の美しさに比べれば、なんと脆弱な美しさであろうか。存在感が全く違う。それに、「そら」がなければ、そもそも存在し得ない姿だ。言ってみれば、鏡に映った影だ。私は鏡に映った像を見て感動していたのだ。なんと情けないことではないか。真実に存在するものには目もくれず、その影しか見ていなかったのだから。


 それと同時に、シェリルに対する興味がいままで以上に湧いてきた。


「シェリル、どうして空を見ていたの」


 シェリルは、突然の質問に驚き、視線の先をアンに移した。そして、空を見るようになったいきさつを話した。


「う〜んと、シェリルは、ちょうちょを見てたの。きれいだなって見ていたら、ちょうちょが空に飛んでったの。それで、お空を見るようになった」


 アンは、シェリルの話を聞いているうちに、あれこれ詰まらない事を考えていた自分が急に馬鹿らしくなってきた。自然と笑いがこみ上げてきた。


「あっそっ。蝶を見ていたの」


 言い終わる前に、笑い声が口から漏れた。それと同時に、自分が詩人には消して成れないことを彼女は自覚した。

 


12。3 憧れ

 シェリルは浴槽に身を沈め彼女の家の小さな浴室とは比較すること自体無理なのだが、広い浴室を見回した。豪華なタイル、大理石をふんだんに使った浴室。そして裸身の女性の等身大の塑像。また壁面には神話の一場面を題材にした、多くの裸体の女性と男性が戯れる少し淫らな絵が描かれていた。シェリルはそれらを食い入るように眺めた。


 そこに、絵画からまるで抜けでたように、美しい姿のアンとエミリアが入ってきた。シェリルは自分の体とは明らかに違った二人の体を先ほど以上の熱心さで観察しだした。
一方アンは、シェリルの些か無作法な視線を感じながら、敢えてそれに気付かない振りをして彼女に近付いてきた。そして、「どうしたの、シェリル」と尋ねた。


シェリルはその質問に答える代わりに暫くアンの体をじっと見た。


「いいな、おねえちゃん。おっぱいあって」


 シェリルは、自分のぺちゃんこな胸を一度見、一つ嘆息をついてから、アンの僅かに膨らみ始めた胸を羨望した。


アンの方も、シェリルがそう言った後もなお自分の胸の方を羨望の眼差しで見つめるの見て、悪い気はしないらしく、「ありがとう」と言ってから、湯船に浸かった。


 シェリルは、アンにばかり気を取られていたが、エミリアの存在に気がつき、視線の先を彼女の方に移した。


 彼女は、子供から女性の体へと変貌の初期段階のアンとは、明らかに異なっていて。全体的に丸みを帯び、腰の辺りはキュッとくびれ、胸は豊かで柔らかそうであった。


 さらに、ちいさな子供に良くあるように、好奇心から、シェリルもその胸に触れたいという衝動に駆られた。


「おねえちゃん、触っていい」


 シェリルエミリアの方を見て尋ね。これがアンであったら、エミリアも少し考えたであろうが、シェリルはまたまだ小さな子供であった。彼女は即座に了承した旨をシェリルに知らせた。シェリルは喜々とした様子で、しかし、恐る恐る手を伸ばした。


 それは、彼女が予想したよりはるかに柔らかく、弾力に富んでおり、質感に富んでいた。そのため、シェリルは、何かにとり憑かれたように、それに対する憧れをもって、触り続けた。


 それも無理もないことであろう孤児(みなしご)であったシェリルは、年頃の女性の裸を見るのも初めてならば、触れるのも初めてであったのだから


 シェリルだって、女性の胸は見たことはあった。とは言え、それは母親がその子に授乳する際の物であり、いま彼女が見ているものとは、胸という同一の言語ではあるが、明らかに別物であった。また直接触れる経験などもなかった。それだけ、熱心に彼女は、触り続けた。


「くすぐったいですわ」


 エミリアのその言葉で、シェリルは正気を取り戻した。彼女は、ちょっとはにかんだ様な笑みをエミリアに見せつつ、照れ臭そうに、だが同時に、残念そうに手を離した。その行為を待っっていたように、早速アンの痛烈な一撃がシェリルに浴びせかけられる。


「いやらしいわね、シェリル」


 シェリルはその言葉にきょとんとした表情を見せ。何が嫌らしいのか理解が出来ないからである。また、「嫌らしい」という言葉を聞くのも初めてであった。


「おねえちゃん、嫌らしいって、何?


 シェリルにとっては当然の質問であったが、この予想外の反撃にアンは困惑した。彼女はその質問に答えるには余りにも育ちが良すぎのだ。アンは沈黙をするしかなかった。


「そうですは、王女様」


 シェリルに助勢するかのように、エミリアがその言葉を付け足してきた。アンは、不思議そうに彼女を見上げるシェリル明らかに彼女を困らせるために発言したエミリアの意味深な笑顔を、恨めしそうに見詰めた。そして、彼女は顔を次第に真っ赤に染め上げ知らないわよ」と言い、二人にそっぽを向けた。


 エミリアは、アンのこのかわいらしい反応に満足したらしく、彼女に代わってその言葉を説明しだした。シェリルは、何処まで彼女の説明を理解したかは別にして、ふんふんと言って彼女の説明を熱心に聞き入った。エミリアの説明に、一定の理解を得たらしく、そして、アンには信じられない言葉をシェリルは漏らした


「じゃ、お父さんと一緒に入るのも嫌らしいの」


「シェリル、あんたあいつと一緒にお風呂入っているの」


 アンは、口にするのもおぞましい少年と彼女が一緒に風呂に入ると聞き、体をシェリルから少しばかり遠ざけた。自分の体が、エルスロッドに汚されるような感覚を憶えたからだった。潔癖な彼女らしい行動であり、また、彼女がエルスロッドをどれほど毛嫌いしているかの証明でもあった。


 そうした事を知るべくもないシェリルは、「うん」と大きな声で嬉しそうに返事した後、二人の入浴の様子を熱心に説明し出した。


 アンも年頃の少女であった。異性に関心がまったく無かったわけではない。王女で、一人っ子のアンは、大人は当然なこと子供のの裸身をも見たことがなかった。それだけ、関心が人一倍が強く、最初は、遠巻きに聞いていたが、次第に体を乗り出して、シェリルの話を熱心に聞いた。時に「質問」を交えながら、熱心にシェリルの話に耳を傾けた。


 それに気を良くして、シェリルは次第に余計なことまで話だした。


「お父さんの、ちょっと気持ち悪いんだァ。シェリル初めて見たとき、びっくりして涙でてしまった。でもは大好き。


 天真爛漫なシェリルであったが、それが「嫌らしい」事であることに気付いたらしく、そこで話を止めた。その事を聞き、いままで身を踊り出していたアンは、さっと身をシェリルの体から遠ざけた。その時、普段発言に慎重なエミリアが思わず口を滑らした。


「あの方のモノは特別ですものね


 シェリルは「そう、そう」と言いたそうに、また、同時に、得意そうに頷いた。暫くアンの頭脳は思考停止状態であったけれどアンはエミリアの言葉を聞きとがめていた。そして、エミリアに発言の真意を確かめる。


「どうして、あなたがそんなことを知っているわけエミリア


 和気あいあいの雰囲気で思わず口を滑らしたが、エミリアは、簡単に尻尾を現すような真似はしない。「嫌ですわ、噂ですよ。王女様もご存じでしょう」とさりげなくごまかしたそして、彼女のっ予想したとおり、アンは納得した表情を浮かべた。


 実はアンは、彼女の発言に胡散臭さを感じていたが、エルスロッドの名を聞くことさえいやだったので、その話題を意図的に避けただけであったのだが


 その後も暫く、一人の幼女、少女そして情勢の肉体の供宴は暫く続いた。


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シェリル 第十一章の残り [シェリル]

11。6 お休み

 

 父親に素直に謝れなかったシェリルは、早くこんな一日を終らせるために、いつもより早い時間に就寝することにした。シェリルは寝台に潜り込んだ。そして、もう儀式化してしまっていたが、いつも肌身はなさず首に掛けている指輪をそっと握りしめ


 この指輪は、彼女にとって単なる指輪ではなく、自身の生命(いのち)よりはるかに大切なものであった。ジェラルドとの兄弟の証であり、その絆であり、そして、今はジェラルドそれ自体であった。そして、彼女はその指輪に今日の出来事を報告し、今日一日の自分の行動を反省した。それから、おもむろに目を閉じた。


 しかし、彼女にとりその指輪が如何なる意味を持とうとも、指輪は指輪であった。何も答えてくれない。シェリルはその孤独に耐えかね、再び目を開いた


 そして、ぎゅっと指輪を握りしめていた手を開き、指輪を見つめはじめた


 ジェラルドの瞳の色をした翡翠をじっと見つめしかし、指輪は何も答えようとはせず、ただ優しく輝くだけであった。それを目にし、いつも以上に「おにいちゃんに会いたい」ととシェリルは思った。 今日のこの日ばかりは、この指輪彼女の心の支えにもならなかった。いや、むしろ彼を今まで以上に追憶させるものとなっていた。知らず、シェリルの目に涙が「ジワッ」と浮かんできた。シェリルはそれを拭おうともせず、そのまま、枕に顔を埋めた。そして、ぎゅっと指輪を握りしめ、その孤独を耐えようとした。

 


「シェリル、寝たか」


 エルスロッドは、いつもどおりにそう娘に声を掛けてから、娘の待つ寝台の中に入っきた。彼は微かに枕が濡れていることに気づき、『泣いているのか』と思った。


 彼は、枕に顔を押し当てている娘におどけた口調でこう語りかけた。


「シェリル、泣いているのか。こんな大事な俺の娘を泣かせやがって、よし、お父さんが、あいつが帰ってきたら、とっちめてやる」


 その言葉を聞き、今までわだかまっていたものが、一気に吹き飛んだ。シェリルは、エルスロッドの胸で「わっ」と泣きだした。


「シェリル、おにいちゃんに会えなくて、さみいしいよ。もう、我慢できないよ」


 シェリルは、泣きじゃくりながら、父親に今の心境を素直に告白した。そして、「ごめんない」と小さな声で今日の行動を謝った。


 一しきり泣いて、シェリルは泣き疲れたらしく、彼の胸の中で眠り始めた。エルスロッドは、涙で濡れた髪の毛を何度も掻き上げながら、その娘の顔を見つめ。出会った時に比べ、だいぶ彼女の顔の血色は良くなっていた。


『知らないうちに、随分と成長したんだな、こいつ』


 何故かは分からなかったが、胸の奥が熱くなった。そして、彼の目にも幾つもの涙が浮かんできた。


 それと同時に、親友ジェラルドに対する、言い知れぬ憤りがふつふつと湧いてきた。

『あんにゃろう、今度会ったらただじゃおかないからな』


 彼は、心にそう強く誓ってから、眠ることにした。



 夜半に、馬車の近付く音で、彼は目を覚ました。


『何だ、こんな夜更けに』


 体を起こそうとした時、既にシェリルが目を覚ましていることに気が付いた。


「シェリル、どうしたんだ。こんな時間に目を覚まして]


 彼は、シェリルの行動に不審を抱き、そう尋ねた。シェリルは目を輝かせ、「おにいちゃんが、来る」とだけ彼に返答した。


 そんな馬鹿なと思い、娘の顔のぞき込んでみた。娘の顔が信じられないほど生き生きしてい。その様子から、彼女が何か感じていることを知った。


 シェリルは微かに聴こえて来る馬車の車輪の音を、そして、蹄の音をよく知ってい。そして、その中に誰が乗っているのか良く知っていた。シェリルは、はやる気持ちを抑えかね、「お父さん、早く。早く」と階段を降りるように催促したエルスロッドは、信じられない思いであったが、娘の言うままにシェリルを抱きかかえ、急ぎ足で階段をくだった


 シェリルが予告したように、馬車の音ますます大きくなってきた。そして、彼の家の前でその音止まった。


エルスロッドは信じられない面持ちで家のドアを開いた。

 

 

これは、なかなか、変わった出迎えだね」


 そこには、いつも通りの、ジェラルドの笑顔があった。彼はジェラルドの発言の真意が理解しかね、「何言ってんだ、おまえ。気でも触れたか」という視線で親友の顔をのぞき込んだ。


「いくら親友でも、こういう出迎えは遠慮したいね。僕も、一応、男だから」


 ますます混乱するエルスロッドの疑問に答えたのは、シェリルであった。


「お父さん、裸だよ」


 シェリルは、小猫のようにジェラルドに何度も何度も頬ずりしながら、父親の今の姿を指摘した。


 エルスロッドはその言葉でようやく自分が素裸である事に気が付いた。突然の来訪、シェリルの不可解な言動、そしてシェリルの執拗な催促、彼はすっかり慌てて、自身が一糸纏わぬ姿でいることを失念していたのである。また、心の何処かでシェリルの予言を信じきれなかったこともその一因であった。エルスロッドは、ただただ、苦笑いするしかなっかた。


 この騒ぎを聞きつけ、ハンナが彼の夜着を持ってきたが、今更着るのも妙に不自然に思われた。彼は、ハンナから夜着を受取ると、それをに掛けた姿でジェラルドを応接室に案内した。


 エルスロッドは、広いソファーにどんと足を広げ、二人の様子を見ていた。今まで魂が消え入りそうな彼女の様子がであるかのように、シェリルが明る元気な様子でジェラルドに甘えていエルスロッドはシェリルの無邪気な姿をただただ目を細め、同時に苦笑いしながら見つめる以外何もできなかった。


 一方、ジェラルドは、シェリルから何度も両頬キスをされ、彼女の唾液でべとべとであったが、それを気にする様子もなく、暫く無作法な親友の姿を呆れ顔で見ていた。


「その見苦しいものだけ、何とか出来ないかい」


「今更隠す仲でもないだろう」


 ちょっと意味深にエルスロッドは答た。幼なじみではないけれど、それに近い育ち方をした二人である。お互いの体など、これまでに見飽きるほど見た。貴族中の貴族であるジェラルド、そして、自身の肉体にいささかのコンプレックスを持っていないエルスロッドは、およそ肉体に対する羞恥心がなかったまた、最近は少なくなったが、以前はよく一緒にお風呂に入った仲であった


「シェリルの前だぞ。少しは慎め」


「何、バカなことを言っているんだ、お前は。シェリルと俺は毎日一緒に風呂に入っているんだ。何でシェリルに、隠す必要があるんだ」


 この言葉は、ジェラルドには全く理解し難いものであった。貴族としての彼の常識にそのようなものがなっかたからである。貴族は、子供と言えども、それを一人前の一人の個人として扱う。親娘とは言え、立派に異性であり、そのため、一緒に入浴する事などしない。ジェラルドにしたところで、母親と入浴した記憶がなかった。


「本当なのか、シェリル」


 シェリルは小さく頷き、彼女の唾液でべっとり濡れた彼の頬にキスをしよとした。その瞬間、ほんの一瞬だが、彼がキスを避けようとした。


「おにいちゃん、どうしたの」


 シェリルは不思議そうに彼の顔のぞき込んだ。「いや、何でもない」と答えた。エルスロッドにキスされるような気がしたから」とシェリルに言えるはずがなかった。


 一方、ジェラルドから了承を取り付けたシェリルは、飽きる事なくキスをした。そして、シェリルのそのキスも一段落した所で、ジェラルドがシェリルの耳元でそっとささやいた。


「シェリル、おにいちゃんと今日はおねんねしようか」


 彼女は「うん」とすぐにその提案に飛びついた。そして、父親に「シェリル、今日おにいちゃんとねんねする」と告げた。


「じゃ、お父さんは何処で寝るんだ」


 彼は、少々ふてくされた様子で、シェリルにそう尋ねた。


 父親としての楽しみ目の前の男に奪われたことが、我慢できなかったのである。そんな父親の思いを尻目に、シェリルはジェラルドの手を引っ張り、親娘の寝室へ案内を始めた。


 エルスロッドは、諦めた表情を浮かべ、ジェラルドにきつい口調でこう言った


「婚前交渉は認めないからな」



11。7 返信

 

 父親を捨て置き、シェリルは親娘の寝室へとジェラルドを案内した。まず自分から寝台に潜り込み「おにいちゃん、早く。早く」と手招きした。一方、ジェラルドはシェリルにああは言ったものの、やはり他人の寝台に、しかもつい先まで寝ていた寝台に入るのはためらわれた。それでも、シェリルの誘いに逆らいきれず、意を決し寝台に入った。


 妙に生温かくて、微かに親友の体臭がしていた。そして、ジェラルドはシェリルへの提案を少しだけ後悔した。そして、その思い振り払うかのごとく、シェリルに話しかけた。


「シェリル、お手紙、ありがとう。おにいちゃん、すごく嬉しかったよ。だから、おにいちゃん、飛んで帰って来ちゃった。」


 王都に帰る途中、シェリルの手紙を持った家臣から、受け取っていたのだ。


「それとも、お返事の方が良かったかな」


 彼は、わざとシェリルにそう尋ねた。聞かなくても答は分かっていが、それでも本人の口から直接聞きたかったのだ。


「ううん。おにいちゃんの方がいい」


 何も迷う事なく、彼女は答えた。手紙に記される千、万の美辞麗句より、ジェラルドがこうして側にいる方が遥かに価値があった。少なくとも、シェリルはそうであった。確かに、時としてかけられる一つの言葉のほうがうれしいこともあり、それは幼さの証明であるかも知れないが、しかし、その本人に勝る便りがあるであろうか。


シェリル 第十一章の続き [シェリル]

11。4 姉妹

 

 あれほど近くには立ち寄るまいと幼心にも決心していたのに、彼女の足は自然と向かっていた。誰もいない部屋、扉を開けるのためらわれた。その後に感じる言い知れない寂寥感を知るから、シェリルは扉を開けるのがためらわれた。


 だが、中から人の気配が微かにした。シェリルは『おにいちゃんがいる』と確信した。シェリルは彼女の小さな体を歓びで大きく震わせて、勢いよく扉を開けた。そして、「おにいちゃん」と叫んだ。しかし返ってきた言葉は、彼女の予期せぬものであった。


「シェリル、あんた一体何しているの」


 アンは勢い良く自分の方にシェリルが駆け寄るのを不審に思い、そう尋ねた。


「あ、おねえちゃん」


 シェリルは、期待が大きかっただけに、すっかり落胆し、そう呟いた。


「おねちゃんこそ、ここで何しているの」


 アンがここにいる理由は、知っている。自分と同じに、ジェラルドを待ちわびて、ここに来てしまったのだ。同じ男を愛している彼女には、今のアンの気持ち誰よりも理解できた。シェリルは、アンの立っている所に向かった。


 アンは、シェリルが寄ると、そっと彼女の小さな手を握る。いつもこの部屋で激しくいがみ続けてきたが、今日は違う。二人には争う理由がなかった。争いの種である、ジェラルドがここに居ないのだから。二人は、互いに手をしっかり握りしめ、この人気のない寂寥とした部屋を見渡した。何か、ジェラルドの面影を見つけるために、部屋を見回した。しかし、何もなかった。見慣れたはずのこの部屋が、今日のこの一日は、二人には妙によそよそしく感じられた。


 誰から言った訳ではない。二人の足は、自然と、ジェラルドの寝台へと向かった。そして、打ち合わしたかのように、一旦互いの手を離し、寝台にそれぞれ互いの頬を寝台に擦り寄せた。


 主人がいなくなっても、この寝台のシーツは毎日取り替えられていた。二人が期待した、ジェラルドの体の匂いは感じ取ることはできなかった。二人は、それでも微かな彼の痕跡を見つけるべく、柔らかい頬を擦り合わせた。


「シェリル、中に入ろうか」


 アンがシェリルに提案した。シェリルは、コクリと小さく頷き、了承した由を伝えた。二人は、寝台の両側からそっと体を滑りこまし、そして、中央で体を寄せ合った。アンが年若いシェリルの小さな体に両方の手を回した。シェリルはそれを受け入れた。


彼女は、いままで抱いてきた様々な感情が、一気に氷解するような感じがした。不安、寂しさ、孤独、それらの感情が一気に氷解するように思われた。それと同時に、アンからジェラルドに共通する、何かを感じ取った。それが何かは、シェリルには分からなかった。彼女は、アンの顔をのぞき込む。そっと暫く眺め続けた。いままでシェリルはこれほど長く、そして、良く見たことがなかった。


『おにいちゃんに似ている』


 シェリルはその事に初めて気が付いた。その事が嬉しくもあり、同時に悲しかった。血の繋がり、アンにはあるそれがシェリルに欠如しているのだ。シェリルは、優しく自分に接してくれる誰とも血がつながっていなかったの事だけは、後天的にどれほど強く望もうが、努力しようが、手に入れることはできない残酷な現実である。彼女は、理屈でなく、それを直観した。しかし、今はその事を考えまいとした。その感情を振り払うべく、アンを抱き返した。


 アンの体は暖かかった。何処となく、ジェラルド同じ感触があった。そうしたら、いま感じた事はどうでも良くなった。『愛されている』、その事が理解できた。そして、自分も『愛している』。その事こそ、最も重要であるような気がした


それで安心したのであろうか、シェリルは、急に眠くなってきた。そして、そのまま、眠り始め。アンもそれに応じるかのように、目を閉じた。二人は実の姉妹のように、ジェラルドの寝台の中で、肌を寄せ合い、眠り始めた。

 

 


11。5 家路

 

 夕暮れが迫り、街路沿いの露店商が一斉に店を閉じようと、ざわめき出していた。王都の極日常的な光景である。普段の彼なら、それに目もくれないで、家路を急いだであろう。しかし、今日のエルスロッドの足取りは重かった。家に帰るのが、何となく辛く感じられた。シェリルの予想外の行動。それが彼の足取りを自然と重くしていたのだそんな彼の目に、露店商のある商品が目に止まった。それは他愛のない子供用の玩具の指輪であった。ガラスで出来た、安物の指輪。だが、何故か、それが彼の目を引き付けた。


「それ、見せてくれ」


 エルスロッドは、露店の主にそう声を掛けた。


 一方、露店の主は、突然声を掛けられ、驚いたように彼の方を見た。見るからに、騎士風の少年。男は、この少年騎士と面識はなかったが、それが誰なのか分かった。そこで、今まで忙しく動いた手を止め、「これで御在ましょうか」と丁重に答えた。


男は、身分の高い少年騎士が安物の指輪に食い入るように見つめていることに疑問を抱いた。王都で悪名を馳せている少年なだけに、その疑問はさらに膨らみ始め


 エルスロッドは、露店の主のその不躾な、好奇心丸だしの視線を感じながら、それを気にする事なく熱心にその指輪を見つめた。


『シェリル、これ歓ぶかな』


 なおも暫くその指輪を眺めてから、意を決したように店の主に「これを貰おう」と告げた。そして、懐から一枚の銀貨を取り出した。


「これで足りるか」


 男は少年の世間知らずさに、ただただ、呆れた。一方、エルスロッドは、その男の視線に気付き、「足りないのか」と驚いたような表情を見せ「こんな玩具の指輪がそれほど高いものなのかった表情で男の顔を見た。


「逆ですよ。こんなに頂いたら、お釣りがありません」


 その言葉を聞き、エルスロッド安堵した表情を浮かべたこれが今の彼の手持ちの金の全額であったから。情けないことであるが、彼は家計の紐をしっかりハンナに握られてい彼の将来の事を考え、しっかり者のハンナは極少量の金額しか持たせていないのだ。無計画な彼が浪費することを恐れての事だ。お蔭で、いつもエルスロッドは金欠であった。そうではあったが、「釣りは要らない」と、エルスロッドは露天の主にそう言った。これには貴族階級に所属する見栄もあったし、それ以上に娘の贈物としてその方がふさわしく思えたからである。それさえ虚栄心のなせる業ではあるが、愛する娘に安物の指輪を贈るなど、彼のプライドが許しはしなかった。


「その代わり、箱に詰めてくれ。それから、包装も忘れずに」


 エルスロッドは男にそう注文をつけた。娘ではあるが、立派な貴族の子女として、それだけは譲れなかった。


 しかし、無理な注文を衝きつけられ、男は狼狽した。玩具の指輪をそこまでしっかりした包装した経験など男にはなかったし、また、そういうことをしたという話を同業者から聞いたこともなかった。大体、玩具の指輪である。殆どの人は、この場で子供の指にそれを通して帰る。包装する必要などないのだから。


 男は、エルスロッドのその無理な注文に慌ててはいたが、経験豊かな露店商であった、すぐにその善後策を見つけた。他の商品の入った化粧箱を一つ取り出し、中から商品を抜き出し、そこに指輪を入れ、売り物の化粧紙できれいに包装した。正式にどう包んだら良いか知らなかったが、何とか格好だけはついた。男は恭しくそれをエルスロッドに手渡した。


 エルスロッドは、満足気にそれを受け取ると、無造作にポケットにしまい、その場を去った。


『シェリル、これ歓んでくれるかな』


 彼は微かな疑問を抱きつつも、以前とはうって変わったような、軽い足取りで家路を急いだ。

 

 


11。5 親娘

 

 予想はしていたが、彼を迎えたのは、シェリルのむくれた顔であった。彼の微かに抱いていた歓びは、それを見て一変に砕け散った。彼は「ただ今」とシェリルに声を掛けたが、シェリルは彼からプイッと顔を背けた。その様子は子供じみていてそれなりにかわいいものであったが、彼にはそれを楽しむゆとりはなかった。シェリルの怒りが収まっていないことを知り、彼女を刺激しないように、彼女の側をそっと通りすぎた。


 いつもならば、笑いに包まれた楽しいはずの夕食も、この日ばかりは、エルスロッドに寒々としたものにしか感じられなかった。


 一方、シェリルはというと、彼と極力目を合わさないようにしているようであった。このため、隣合って座っているにもかかわらず、エルスロッドには、シェリルと自分を隔てる物理的な距離が実際以上に遠く感じられた。そこで、彼は、彼女の機嫌を取ろうと何度も話しかけたりするのだが、シェリルは、それを完全に無視し、食事をも黙々と取り続けた。やがて諦めたように、彼も無言のまま食事を食べ始めた。気まずい沈黙、その苛立ちを料理にぶつけるかのように、エルスロッドはただひたすらに食べ続けた。


 気まずい食事も終わり、ハンナが二人にお茶を煎れるために立ち上がった。まるでそれが合図であったかのように、エルスロッドはシェリルに話しかけた。


「実は、お父さん、シェリルに渡したいものがあるんだ」


 そう言うと、エルスロッドは、ポケットにていれ、それを取り出した。それは彼の希望の星であった。きっと、シェリルはこれを気に入ってくれる。エルスロッド祈りに近い気持ちで、それをシェリルの前に置いた。


 しかし、シェリルはそれに見向きもしなかった


 彼は、それにしびれを切らしかのように、プレゼントをシェリルの小さな手に無理槍握ぎらせた。その瞬間、「お父さん、大嫌い」という言葉が返ってきた。そして、シェリル手加減無しにそれを父親めがけて投げつけた。それは、狙いを過たずエルスロッドの額にぶつかった。そして、それはからんと言う音を立てながら、床に落ち、転々と転がって行った。



衝撃であった。娘のこの行動は彼に取り衝撃であった。シェリルの手加減無しの一撃は、彼の心を無惨に打ち砕いた。真っ赤になった額の痛みもさることながら、それ以上に心が痛んだ。


 一方シェリルは、まるで逃げ去るように、その場を後にした。


 珍しく娘の後ろ姿を追いかけることもせず、エルスロッドは、虚ろな目で、無惨に転がっている娘への贈物を見つめていた。そして、彼の目には、それが今の自分のよう思われた。暫く呆然それを見つめた後、彼は娘の後を追いかけた。

 


 シェリルは、浴槽に浸かりながら、父親の現われるのを待った。それは約束だから。


 浴槽に浸かりながら、彼女は、「今度こそ父親に謝ろうと思うのだが、どうもそれが上手くできそうにないように思えた。一日の始めに掛け違えたボタンを、どうしても掛け直すことが出来ないでいた。『何でだろう』と考えるのだが、分からなかった。そして、『シェリル、悪い子になっちゃったのかしら』と気を揉み始めた。


 エルスロッドの浴室に入る音がした。彼女の視線は自然とそちらの方に向いた。あんなに酷いことをしたのに、自分を怒る様子もなく、優しく微笑み掛けてくれる父親の視線を見て、『今度こそ謝らなくちゃ』と決心した。その言葉を掛けようとしたとき、二人の視線が交差した。その瞬間、シェリルは、またしても、目を反らしてしまい、謝ることが出来なかった。その事実が、彼女をさらに不愉快にした。

 


 今まで、自分と視線を合わすことをシェリルが極力避けていたのに、今こちらの方を確かにみた。エルスロッドはひょっとしたら、機嫌が直ったのかな』と思った。しかし、浴槽に片足をつけた瞬間、彼の淡い期待を裏切り、シェリルが浴槽から出て行ってしまった。


 入れ替わるように浴槽に浸かった彼は、なかなか機嫌を猶してくれない娘の方を見た。一緒懸命に自分の体を洗おうとするのだが、シェリルはどうしてもそれがうまく出来ない様子であった。シェリルと風呂に入るようになってから、それは父親である彼の役目であったからである。それなのに、意地をはり続け、自力だけで体を洗おうとするう娘の姿を見て、笑いが自然と浮かんできた。そこで、彼はシェリルが何処まで出来るか見ることにした。


 暫くその様子を見ていたが、なかなか上手に出来ない娘を見かねて、エルスロッドは湯船から上がり、彼女の背中を流そうとしたとき、「お父さん、シェリルに近寄らないで」と一蹴されてしまった。


「だって、それはお父さんの仕事じゃないか


 彼がその言葉を言い終わる前に、シェリル濡れ鼠のまま浴室を出て行ってしまった。


 そのシェリルを追うように、彼も浴室から急いで上がった。床一面に、シェリルの濡れた足跡が残っているのを見て、彼は、自分が娘の気持ちを本当に自分が理解して上げられないことを嘆いた。そして、その思いがが口に出てしまった


「やっぱ、血が繋がってないと駄目なのかな」



 彼の不注意なその言葉を聞き、側にいたハンナが烈火の勢いでエルスロッドを叱り始めた。


「情けない。私は、坊っちゃんをそのように育てた憶えはありません」


 最後にその言葉を付け加え、ハンナ泣きだしてしまった


エルスロッドは、ハンナの様子から、自分が絶対口に出しては行けない言葉を口にしたのだとうことを知った。彼は「俺が悪かった」とごく短く謝った。


 その言葉を聞き、満足した様子でハンナはエルスロッドに笑い掛けた。


「テーブルに行ってご覧なし、坊っちゃん」


 うって変わったハンナの様子を見エルスロッドは自分がすっかり彼女に騙されたことに気づいた。人生経験違う、また彼の性格の隅隅まで知るハンナにとり、彼を騙すなど造作のないことだったのであるそして、エルスロッドは、改めて、自身にとっての彼女の存在の大きさを気づかされた。それと同時に、血の繋がりなど、大した問題でない事がわかったような気がした。その生きる証拠が現に自分の目の前にいるのだから。


 彼はハンナの勧めに従いテーブルに行ってみた。そこには、指輪を包んでいた包装紙が大きく広げられていた。そして、その紙には、赤いクレヨンで

お父さん、

と、ことさら「だいきらい」が大きく書かれていた。


シェリル 第十一章 [シェリル]

十一章 孤独


11。1 ひとり

 

「お父さん、おにいちゃんいつ帰って来るの」


 シェリルは、朝食を取りながら、エルスロッドに尋ね。父親から返って来る答は、もちろん、知っていた。それでも、シェリルは毎日飽きる事なくこの質問を繰り返した。


「明日じゃないか」


 エルスロッドは、やはりいつものように答えた。その瞬間、いつものシェリルからは考えられない答えが返ってきた。


「嘘、お父さん」


 シェリルの語気は鋭かった。いつもは、先ほどの返事で満足した振りをしていたが、もう一月以上になり、シェリルの忍耐力ももう限界にきていた。シェリルは顔を真っ赤にして更に言葉を続けた。


「お父さん、いつもそうやって、シェリル騙しているもん。ねえ、おにいちゃんは、いつ、帰って来るの」


 シェリルはただ真実を知りたかったのである。単なる空頼みは、もうしたくなかった。「今日も帰ってこなかった」と、ベッドに就く時の、あの空しい思いはもしたくなかった。帰って来る時を知れば、どんなに寂しくても、眠りそして目を覚ませば、それだけジェラルドの帰宅が近くなることだけを頼りに出来。そんな切実な思いからであった。


エルスロッドも、シェリルの気持ちを察し、シェリルに真実を告げる。


「すまない、お父さんも知らないんだ」


「嘘。お父さん、おにいちゃんは、何時、帰ってくるの


 何時にない父親の真摯な表情から、それが真実であることをシェリルは読み取っていたが、そう言ってしまった。彼女の「せめての思い」が、最小限の願望が、彼女の口を借りて、そう言わしめた。

 

エルスロッドは、シェリルのその気持ちが理解できるだけに、辛かった。どうシェリルを慰めれば良いのか分かりかねた。頭の中で「血の繋がりがないからさ」とささやく声がした。彼は「違う」と強く否定し、もう一度シェリルに謝る。


まない」


「お父さん、大嫌い」


 シェリルは大きな声でそう叫び、食事を中座して自分の部屋にかけ上がった。エルスロッドは、呆然自失の体で、「シェリル」と小さく彼女の名を呼び、その後ろ姿を見つめていた。

 

 ハンナは二人の喧嘩に一切口を出さなかった。

 

 シェリルは自室に戻ると先程、父親にひどい言葉を口にしたことを反省した。悪いのは自分だとは分かっていたけれど、父親に謝る気持ちには、どうしてもなれなかった。自分の言うことを叶えてくれない父親に謝る気持ちにはどうしてもなれなかった。


シェリルの気持ちはもう限界にきていた。追いつめられていた。そこで、救いを求めるべく、マリーのもとに行くことにした。いつもより早いが、このままこの家にいると、自分が駄目になるように感じられ、また、同時に、父親であるエルスロッドに更なるひどいことを、彼を傷付ける事を言い出しそうに思えたから。


 エルスロッド、シェリルが何処かへ出かけようとするのを見て、「シェリル、何処にいくんだ」


と声を荒げて、注意してきた。シェリルは、振り返ることなく「おかあさんとこ」とだけ言い、出ていこうとしたしかし、エルスロッド、シェリルを抱え上げて、それを阻止した。シェリルは唯一自由になる足をばたばたさせて抗議した


「お父さん、放して。おとうさん、放して」


「シェリル、お前が一人で行けるはずないだろう」


 シェリルの身を心配してエルスロッドは、シェリルの軽挙をたしなめた。それがシェリルの感情を更に刺激した。


「離して。シェリルは、もう一人で行けるもん」


 その言葉を耳にしたエルスロッドは、諦めたように彼女の体を両腕の縛(いまし)めから解いた。それでも、シェリルの事が心配らしく、ハンナに一緒について行くよう命じた。そして、一人食卓の方に向かった。

 


11。2 朝の街並

 

 シェリルはハンナに手を引かれて王都の朝の街並を歩いた。もう見慣れたはずの街並が、今日は違って見えた


 シェリルは、この時、気が付いてないが、公爵邸の道を自らの足で歩いたことがなかった。いつも父親であるエルスロッドに抱き上げられた状態でこの街並を見てきた。いま初めて自分の本来の目の高さから王都のこの街並を見たわけである。当然ながら、その景色は違って見える。また、自分の本来の歩く速度で世界を見ていた。エルスロッドと六歳の幼女のシェリルでは、自ずと速度に差が出る。そのためでもあった。


 そして、シェリルは、自分が初めてこの道を通った時の事を思い出す。


 それはまだ春早い頃の話である。街の喧騒はその時と何も変わってはいなかったが、その時の街にはまだ何の生命の息吹は感じられなかった。それ今はもう初夏である。濃い緑色の葉、様々な草花が街路沿いに繁茂してい。少し肌寒かった気候も、今では、少し歩くだけで汗ばむほどになっていた。そう考えると、随分時が早く流れたのだなとシェリルは思った。


 シェリルは歩いているうちに、少し疲れてきた。実際に歩いてみると、ジェラルドの屋敷と自分の家が、自分が予想した以上に離れていることを知った。


『お父さん、この道をいつもシェリルだっこして歩いていたんだ』


 父親に愛されていることを改めて実感し父親に対して少しだけ優しい気持ちになってきた。そして、『帰ったら、お父さんに御免なさい言わなきゃ』とシェリルは思った。


 ハンナは少しシェリルの気持ちが落ち着いたのを見て取ると、穏やかな口調で彼女にこう語りかけた。


「シェリル様、帰ったらお父さんに謝りましょうね」


 シェリルは「うん」と素直に答えた。

 

 

11。3 お稽古

 

 ハンナはシェリルを送り届けと、そのまま帰ってしまった。シェリルは、セイラをひき連れるように、マリーの部屋へと向かった。普段のシェリルなら、真っ先にジェラルドの部屋に向かうところだが、今はその部屋の主はいない。それでも、最初の頃は、ひょっとしたらの思いから彼の部屋をのぞいていたが、今はそれさえ止めてしまった。かすかな希望を打ち砕かれたときの、落胆が幼いシェリルにももう耐えられなくなっていたからである


 しかし、マリーの部屋に向かう途中、いやがおうでもジェラルドの部屋を通らなければならなかった。シェリルは、わざと下を向き、ジェラルドの部屋を万が一にも見ないようにして、歩いた。セイラは、シェリルの気持ちが理解できるだけに、なに一つ言葉をシェリルにかけなかった。そして、マリーの部屋に着くと、マリーにシェリルを預け、そのまま彼女の部屋から去って行った。


「さあ、シェリル。文字のお稽古しましょう」


 マリーは努めて明るい声でシェリルにそう声をかけた。今までは、ただシェリルを可愛がるだけのマリーであったが、最近は、ちょっとした教育ママへと変貌していた。読み書きできる人間は、王侯貴族、聖職者と言った特権階級を除いては、医師などの知識階級、あとは商人の一部しかいない。読み書きできる能力を持つ者はわずかであり、その能力は一生の財産であった。また、シェリルの人生を長い目で考えれば、行儀作法と読み書き算盤といった能力だけはぜひとも子供のうちに身に付けておく必要があるように彼女には思われた。貴族社会で生きるためにはもちろんのこと、人として生きる上に於いても、この能力は必ずプラスに働くからだ。そして、一度手に入れれば、決して失うことの一生の財産になる。


 もっとも、それだけ理由のすべてではなかった。ジェラルドが居なくなってからのシェリルの落胆ぶりはマリーの手にも余り、そのため、シェリルの関心一時的にしろジェラルドから遠ざける必要があったからである。何かをしている間、少なくともその間だけは、人は余計なことを考えない。そして、同じするなら、単なる手慰めではなく、彼女の将来に役立つものをした方がいい。そこで読み書きの稽古が二人の間で始まったのであった。


 シェリルを説得するのは意外なほど簡単であった。「ジェラルドに手紙を書きましょうね」の一言で済んだ。シェリルはこの提案にすぐに跳び付いた。かくして、シェリルの文字のお稽古が始まった。 目的意識がはっきりしていること、そしてジェラルドが関係していること、それ故にシェリルは熱心に文字のお稽古をした。また、生来の利発さもあいまって、その進歩の早さは目に見張るものがあった。短期間のうちに、シェリルは、簡単な文章なら読み書きが出来るところまで成長していた。


 そこで、マリーは、シェリルがお手本を見ながら文字の稽古を熱心にするのを見て、彼女に提案した。


「シェリル、おにいちゃんにお手紙書きましょうか」


「うん」


 シェリルは目を輝かせながらそう返事した。


 

 

親愛なるおにいちゃんへ

 

 だんだん暑くなってきましたが、おにいちゃん、元気ですか。シェリルは、あまり元気ありません。だって、おにいちゃんが、なかなか帰ってきてくれないからです。


 シェリルは、おかあさんから、文字を勉強しています。シェリルは、おにいちゃんにお手紙書きたかったからです。いま、おかさんから手紙の書き方を教えてもらって、おにいちゃんに手紙を書いています。



シェリルは、おにいちゃんがそばにいないので、とてもさみしいです。早く会いたいです。ですから、早く帰ってきて下さい。お手紙の返事より、早く帰ってきてください。


 お体に気をつけて下さい。

 

シェリル

 


P.S.


 いつもおねんねするとき、おにいちゃんだと思って、指輪をみています。


 

 シェリルは、手紙を書き終えると、それをマリーに手渡した。マリーは、シェリルの初めて書いた手紙に目を通す事なく、厳重に封印し、それを侍女に渡す。そして、シェリルに、「おにいちゃんは、シェリルの手紙を読んだら、きっと飛んで帰って来るわ」と断言した。彼女はその言葉を聞き、心が少し晴れ、優しい母親に笑いかけた。


シェリル 第九章の後半 [シェリル]

9。4 お昼寝、そして

 

 途中、昼食を間に挟み、ピアノ稽古はえんえんと続いた。アンは、シェリルの熱中ぶりに驚き、また、その無尽蔵な体力に呆れさえしたこのいつ終わるか分からないシェリルの演奏につき合わされ、アンは、すっかり疲れ果ててしまったが、言い出した手前、自分の方から「やめる」事が言えないでいた。


 一方、シェリルの方も疲れを憶えたらしく、演奏を中断して、アンの方に振り向いた。


「おねえちゃん、シェリル疲れちゃった。『おねんね』したい」


 まだまだ子供ねと思いつつ、アンは、シェリルを彼女の寝台へと案内した。よほど疲れているらしく、シェリルは、寝台の中に潜り込むと「おねえちゃん、おやすみ」とだけ言って、すぐに静かな寝息を立て始めた


 アンはしばらくシェリルの寝顔を眺めていたが、何かを思いついたらしく、シェリルを寝台に一人残し、寝室から出て行った


 それから一時間ほどして彼女は戻ってきた。寝台に眼を遣ると、シェリルは依然寝たままであった。そこで、彼女は寝台に近づきシェリルの寝顔をそっと覗き込んだ


 何の屈託のないシェリルの寝顔を見ているうちに、彼女自身また睡魔に襲われた。シェリルとのピアノの稽古がよほど堪えたのであろうアンもまた寝台の中に潜り込んだ。そして、シェリルに肌を寄せた。なんだか幸せな感じがし、アンもそのまま眠り始めた。


 太陽がだいぶ傾き、部屋に西日が入ってきた。アンはその西陽で眼を覚ました。普段昼寝をしないアンは、体に妙な倦怠感を憶えつつ、依然として眠り続けるシェリルに対して不審の念を持ち始めたそして、眠っているうちに自然とシェリルから離れた自身の体を、再びシェリルに近づけてみた


体が熱い』 


 アンは心の中で、そう呟いた。急いで身を起こすと、シェリルの額に手を当てた。


 シェリルの額は熱かった。顔全体がほのかに赤らみ、薄らっと額に汗を浮かべさえした


『熱がある』


 アンはそう思った。それと同時に彼女の頭は混乱した。であったが、『どうしようよう』と、彼女は混乱する頭で懸命に善後策を考え始めたそして、考えれば考えるほど、経験が少なく世間知らずの彼女はますます混乱した。呆然とした表情でシェリルを見つめる以外、何もできなかった。


 みるみる彼女の顔かから血の気が退いていった。賢いようでも、アンも十二歳の子供であったこれは無理のないことであった。 


「エミリア、エミリア、来て」


 狼狽しながら、アンは、彼女が信頼する家来の名を、大声で何度も叫んだ。絶叫するかのような大声で「エミリア、エミリア」と侍女の名前を叫び続けた。

 


 エミリアは、セイラとともに控えの間で休んでいたが、主人の尋常ならざる声を聞きつけ、慌てて主人の許へ駆けつけてきた


 アンはその姿を見ると、安心し、放心した表情で力なくシェリル、熱があるみたい」と言ってそのまま涙ぐんだしまった

 


 一方、エミリアは、その言葉アンの身に異変が起きたのではないことを知り、安どの表情を浮かべた。彼女にとって、シェリルが死のうが、どうなろうが、主人であるアンさえ無事であれば、それで良かったのだからだが、いつになく狼狽する主人に驚き、エミリアは彼女を安心させるために、シェリル様なら、大丈夫でございます」と断言し、「すぐに、医師を呼んで参ります」と言ってその部屋を出て行った。 

 

 

アンは、心強いエミリアの出現で安心、これまでの緊張の糸が切れてしまった。知らぬ間に涙が溢れてきた。これまで気丈に振舞っていたがアンはまだ12歳の少女であった。これまで一人で懸命に耐えて続けてきた恐怖から解放され、漏れ出た涙であった。


「おねえちゃん、大丈夫」


 この騒ぎで何時しかシェリル眼を覚まし、涙ぐんでいるアンにそう声をかけてきたシェリルのその声で我を取り戻すと、アンはいつもどおりの気丈な彼女に戻った。


「私のこと心配するより、自分のことを心配しなさいよ、このバカ。あんた病気なんだから」


それを聞き、シェリルは「うん」と返事した。


「シェリル、どう具合。どっか痛いところある」


「ううん、どっこも痛くない。でも、シェリル少しお熱あるみたい」


 その言葉を聞き、アンは安心し、シェリル、『おねんね』しなさい」と優しい声で言った。


 シェリルは「うん」と返事し、眠ろうとした。しかし、眼をつむろうとした時、重要なことに気が付いた。


「あねえちゃん、おにいちゃん来たら、シェリル起こして」


 シェリルにとって、この事は何よりも重要なことであった。ジェラルドが自分の病気の知るれば、一目散にここに駆けつけてくることを、シェリルは分かりすぎるくらい分かっていた。その時、自分が眠っていたら、愛するジェラルドを眼の前のアンに取られてしまう。これだけは何としても阻止しないわけにはいかなかったから


 アンはその言葉を聞き、シェリルに不愉快にこう答えた。


「分かっているはよ」


「約束して、おねえちゃん」


 それでもアンに対する疑念が払拭できないようで、シェリルは右手の小指を差し出した。そして、はアンが指切りするのを確認してから、シェリルは安心したように眠りに就いた


『絶対、起こしてなんか遣るもんか』


 アンは、眠ったシェリルの頭を優しく撫でながら、力強くそう誓った。

 


9。5 大騒ぎ

 

 「シェリル病気に倒れる」の報は、すぐに公爵邸に届けられた。その知らせを聞くやいなや、ジェラルドとマリーすぐに駆けつける。


 一方、アンはと言うと、シェリルから病気が伝染ることを心配し、エミリアが別の部屋に移るようすすめる言葉に耳を貸さず、そのままシェリルの眠る寝台の側から離れないでいた。それはシェリルの事が心配であったからであるが、単にそれだけの理由ではなかった。この部屋にジェラルドが現われるのは間違いがないなのに、別室に移されたら、愛するジェラルドに会えなくなる。それだけならまだ我慢が出来るが、ジェラルドをシェリルに独占されてしまう。それだけは断固阻止する必要があった。もっとも、シェリルの病気が死に至る病であったら、話は別であるが、たかが○○○である。たとえ伝染(うつ)されたとしても死ぬことはない


 そこで、アンはシェリルの看病よろしく、ジェラルドの到着を待った。


「アン、シェリル大丈夫か」


 アンは、そう叫んでジェラルドが部屋に駆け込むやいなや、シェリルとの約束を反故にし、ジェラルドの許に駆け寄った。


「お兄様、私、私恐かった」


 迫真の演技でジェラルドに迫った。ジェラルドは、アンが自分の胸元で急に泣き出すので、困ってしまっただが、シェリルの病状を聞き出すため、アンを落ち着かそうと様々な慰めの言葉をかけたが、アンはますます泣き出す始末。さすがのジェラルドもどうしたら良いのか混乱してしまった。シェリルの側には、医師を始めに大勢の人がいのだから、アン以外の者に聞けば良いのだが、シェリルの突然の発病、そしてアンの突然の異変に、ジェラルドもすっかり判断力を失っていた。


「おねえちゃん、ずるい。シェリルと約束したのに、ずるい」


 二人の騒動で眼を覚ましたシェリルが、ベッドからアンに猛烈に抗議した。自分が病気なのを良いことに、ジェラルドを独占するアンに対してシェリルは、自身の知る様々な罵倒の言葉を浴びせかけ、シェリルは抗議した。しかし、アンは、ジェラルドをしっかり抱きしめ、ジェラルドを離そうとはしなかった。それどころか、これみよがしに、ジェラルドに甘え始めた。かくして、いつもどおりの、ジェラルドを巡る二人の熱い戦いが始まった。



 ジェラルドはというと病気であるにもかかわらアンに猛然と抗議するシェリルの姿を見てほっとした。

 それとほぼ同時に、マリーが病室へと入ってきた。ジェラルドの母親であるマリーは、落ち着いた様子で、医師にシェリルの病名を尋ねた。


「麻疹ですな」

 


9。6 帰宅

 

「おねえちゃん、バイバイ」


 シェリルは、毛布にくるまれ、ジェラルドに抱えられた状態で、アンに誇らしいげに別れの挨拶をかけ、馬車へと乗り込んだ。


「いい、ジェラルド。シェリルを連れて帰ったら、あなた近寄るんじゃないわよ」 


 マリーは、ジェラルドがシェリルを抱えたまま座るのを待ち、彼に忠告した。それと言うのは、ジェラルドもアンも麻疹の経験がなかったからである。貴族の跡取り息子として育てられた彼は、伝染性の病気から常に隔離され育ってきた。彼は、麻疹の免疫はおろか、如何なる病に対する抵抗力を持っていない。温室育ちの彼の身を案じての、母親として当然の警告である。彼女にすれば、彼がシェリルと同じ馬車に乗り込むことさえ忌まわしいのだから。


いやだな、お母さん。僕なら大丈夫ですよ」


 ジェラルドは母親の気持ちを察し、苦笑いを浮かべて答えた。マリーは聞き分けのないわが子に呆れ果て、こう言い放った


「あなた、どうして子供が出来るか知っているわよね」


 麻疹でまず死ぬことがないことは知っていた。また小さい子供なら症状が軽度で済むことも知っている。しかし、年齢を重ねるほど、普通、麻疹の症状は重篤化する。そうなれば、当然、熱も高くなる。貴族の跡取り息子として跡取りを残すことは、最低限の義務であり、同時に最大の義務であった。ジェラルドの体のことを何より最優先するのはジェラルドの母親であり、その家に嫁いできたマリーとしては当然のことであった。


 馬車に同乗していたセイラは、母親の質問に絶句するジェラルドの姿を見て思わず笑い声を上げてしまった。彼女のその笑いが、何処か気まずい雰囲気に包まれたこの場を明るいものにした。一方、シェリルは何がおかしいのか理解できない様子で、ジェラルドにまじめな顔で質問した。


「ねぇねぇ、おにいちゃん、何がおかしいの」


シェリル 第九章 [シェリル]

九章 病気

 

9。1 セイラ

 

 シェリルは、朝食を済ますと、エルスロッドに手を引かれ、ジェラルド邸に向かった。しかし、意外なことに、この日はジェラルドもマリーも不在であった。仕方なく、シェリルは自分に割り当てられた部屋で二人の帰りを待っていた。しかし、いつまで待っても二人は帰ってこなかった待つことにすっかり退屈したシェリルは退屈し側に控えている侍女に「おにいちゃん、何時になったら、帰って来るの」と尋ね


「さあ何時でございましょうね。私は何も伺っていませんから」


 侍女のつれない返事を耳にしたシェリルは、今にも泣き出してしまいたい気分になったが、何か思い付いたようで、侍女に話かけた。


「おねえちゃんに会いに行く」


「王女様にですか」


 シェリルは、「うん」と大きな声で返事すると玄関に向かって走りだした。侍女シェリルの後を追いかけた。


「セイラ、早く、早く」


 シェリルは、馬車の前で、何度もそう叫び、遅れてやってくる侍女を促した。そして、セイラが来ると、ひとり先に馬車に乗り込んだ。


「セイラ、遅いよ。シェリル、もう待ちくたびれちゃった」


 シェリルは、セイラにそう言いながら笑いかけた。セイラは、世間知らずなこの幼女に、「申し訳ありません」とだけ言い、丁重に頭を下げた。

 


シェリルは知らないが、セイラは貴族の子女であった。行儀見習いとして公爵家に来ていたが、シェリルの父親であるエルスロッドより身分の高い貴族の子女であった本来、シェリルに名を呼び捨てに去れる筋合いはなかったのだが、いつの間にか、シェリルは公爵家の一員とみなされており、


また周囲の人間からそのように扱われていた。
 最初の頃は、セイラもシェリルに対して、いくばくの反感を抱いていたが、つき合っているうちに、そうした思いも自然と消えていった。


 貴族の慣習にとらわれないシェリルは、とにかく、面白い。無知故に何物にも縛られない。既成の身分など、シェリルにとって何も意味を持たない。そして、誰に対しても平等に接する。それが王侯貴族であろうが、最下層の平民であろうが、シェリルは全く平等に接した。身分制度に縛られるセイラにとり、シェリルのこうした行動は愉快であり、痛快でもあった。今日もこれから、何の予告も、約束もなしに王宮に上がり王女のアンに会うのだと言う。はらはらどきどきの連続で、一緒にいて飽きることがなかった。


 二人を乗せた馬車が動き出すと、セイラはシェリルの退屈を紛らせるために、幼い頃よく聞いたおとぎ話を始めた


 シェリルはというと、主人公の少女の経験する様々な苦難に同情し、さっそうと登場する白馬の騎士に声援を送ったりと時々、話の腰を折って「それからどうなるの」と尋ねながら、セイラの話に熱中して聞いていた自身の幼かった時の事はすっかり忘れた様子で、セイラは、『こんな単純な話によくこれ程熱中出来る物だと半ば呆れ、彼女の「純粋さ」悪く言えば「単純さ」に驚き、眼を白黒させるシェリルの表情の変化を楽しんだ。


「お嬢様、着きましたよ」


 話の半ばに差し掛かった時馬車の御者のその声を耳にし、セイラは、その話を中座してシェリルに「到着」した事を知らせた。よほどその話が気に入ったのであろう、「エッ、もう着いちゃったの」と不満の声を上げた。話の続きが気になるらしく暫く考えから、「あとで、続き聞かせて」と言って、馬車から勢いよく降りた。


 セイラは、シェリルの手を引きながら、アンの部屋へとシェリルを案内し始めた。王宮はシェリルの突然の訪れによって、蜂の巣を衝いたような騒ぎが起き。シェリルは、その騒ぎを一向に帰することなく、目的地を目指して平然と歩いていくこの対照がセイラの眼には何とも心地よく映った。


 そして、これまたいつものように、侍従長がシェリルを制止するために姿を現わした。そんな侍従長に、シェリルは「おねえちゃんに会いたいの」とだけ言い、さらに足を進めてゆく。いい大人が年端も行かない小さな子供に好いように振り回される。それ自体も痛快だが、それより、必死にシェリルを制止しようとする侍従長の表情が愉快であったすっかり見慣れた光景だったが、やはり愉快なものは愉快であ。セイラは自然と起こる笑いを必死に堪えた。



説得が無駄なことを知り、侍従長一つため息をついて、諦めたようにその場を足早に去って行った。それから暫くして、今度は、一人の女官が姿を現わした。セイラはこの女官に見覚えがなかった。『誰かしら』と、注意深く見た。


「これは、これは、シェリル様。ようこそ、いらっしゃいました。王女様も今すぐシェリル様に会いたい御様子でしたが、あいにく、お忙しくて、シェリル様にいますぐお会いになることができません


「おねえちゃん、忙しいの」


 シェリルは、女官にそう尋ね


「ええ。ですが、もうじき、お隙になりますわ。ですから、それまで、あちらの部屋でお休みになりましょうね」


 子供の扱いに慣れた女官はそう言って、シェリルを別室へと案内した。


 セイラシェリルは、案内された部屋で、その時がくるのを待った。だが、すぐに待つことに退屈し始めたシェリル先ほどの話の続きしてくれるよう彼女に頼んできた。セイラはそれを了承しておとぎ話を始めたが、その話をしている最中に、セイラの頭に、突如、「自分たちは先程の女官に騙されたんでは」という思いが浮かんだ。王女がシェリルを待たせたという事実こそ重要なのではなかろうか、と。

 


9。2 侍女エミリア

 

 先ほどの女官が近づき、アンにそっと耳打ちした。それを聞き、アンは満足そうな表情を浮かべた。彼女の無言のねぎらいの言葉に、エミリアは「有難うございます」とだけ言い、何事もなかったように彼女の側に控えた。


 シェリルもセイラも知らないこの女官は王女アンのお気に入りの侍女であった。名前はエミリア。アンが幼少の頃から、彼女に仕えていた。ただここ暫くのあいだ、所用があり、彼女の許を離れていた。このため、片時もアンの側を離れることのないこの侍女の姿を、王都に着てからまだ日の浅いシェリルは見たことがなかった。


 アンより六歳年上の彼女は、アンの良き話相手であり、同時に、知恵袋的な存在でもあった


 王家にゆかりの深いそして国王の股肱の臣の娘エミリアにとって、シェリルの身分をわきまえぬ行動は我慢のならないものであった。そこで、一計を案じて行動したのだ


 シェリルを待たすことこそ重要なのだ。シェリルを待たすことは、アンにその力があることの証明であると同時に、アンがシェリルよりも身分が上であることの何よりの証明であった公爵家の権威を笠にしたシェリルの無軌道な行動を正す機会であった。そして、エミリアはその役を見事に果たした。


 アンはしばらくの間エミリアと談笑を楽しんだ後、「そろそろ良いんじゃない」と言った。


 エミリアは、小さく頷き、それを了承した。そして、シェリルを迎え入れるために、部屋を去って行った。

 


 半時ほどしてから、エミリアが戻ってきた。セイラは、彼女の悠々しい所作を見ながら、彼女の計略にうかつにも引っかかった自分が腹立たしかった。エミリアにとって王家の権威が大切であるように、セイラにとっても主家である公爵家の権威は重要であった。シェリルは公爵家の正式な一員ではないが、それに連なるものである。それを高々の王の娘如きの者が待たして良いはずがない。これは、主家の名誉の問題であり、また彼女の名誉に関わる問題であった。それなのに、まんまと目の前の女官に一杯喰わされたのが何とも腹立たしかった。



一方エミリアは、シェリルに「王女様がお持ちですよ」と声をかけ、シェリルの手を引き歩き出した


 彼女の行動が自分の未熟さをあざ笑っているかのように感じられた。忸怩たる思いでエミリアのその姿を見ながら、セイラは、シェリルの後を追いかけた。

 


9。3 アンと

 

「シェリル、こっちにいらっしゃい」


 アンは、シェリルの姿を認めるいなや、シェリルに呼びかけた。その声を聞き、シェリルは、アンのもとへと駆け出し始めた


 出会った当初、アンは、表に出しこそしなかったけれど、シェリルに対して敵意を露にしていた。しかし、シェリルはともかくとして彼女が愛するジェラルドがシェリル対して妹として以上の関心を示していないことを知り、アンは作戦変更をしていた。シェリルを可愛がることにしたのだ。この事により、ジェラルドの自分に対する評価上がるはずである。シェリルが恋人としてジェラルドをいくら愛そうが、ジェラルドにとってシェリルが妹である限り、アンにとってシェリルの存在は障害にならない。当初は打算からシェリルに接していたが、一人娘(ひとりっこ)であるアン自身、いつしかシェリルに心が移っていた。素直に自分に甘えるシェリルは、アンの目にももかわいく映った。そして、いつもこの広大な王宮で退屈しているアンにとっても、自分を退屈させないシェリルは重要な存在へと変化していたのだ。


シェリルの方も、姉の様なアンの存在は大切であった。およそこれまで肉親の情愛を知らなかったシェリルは、この新しい姉が大好きであった。シェリルにはない全ての物をアンは持っている。知性、深い教養、優雅な振舞い、そして何よりジェラルドに似た美しい容貌。姉である以上に、アンは、シェリルの憧れであり、目標でもあった


 ではあったが、シェリルは、アンに対して底知れぬ何かを感じてもいた。それが何であるかは、幼いシェリルには理解できなかったが、敏感に感じ取っていた。


 また、アンが彼女同様にジェラルドを愛していることも知っている。そして、ジェラルドがアンの事を愛している事も。このことは、シェリルにとっても不満ではあったが、実際問題として、ジェラルドを現在独占しているのはシェリルであったそして、この世の誰より、シェリルが最も長い時間ジェラルドとともにいる。そして、彼の愛を一身に受けている。質はともかく、アンには量では決して負けてはいない。幼いながらも賢明なシェリルはのこと知っていた。



かくして、両者の利害は一致したもっとも、ジェラルド二人の目の前にいなければの話である。ジェラルドが二人の側にいれば、彼を巡る壮絶な争奪戦が始まる。シェリルは自身の幼さを最大の武器に、アンはこれまでの二人の絆の深さを武器に、仁義なき女の争いを繰り広げたいた。そしていま、二人の争いの元凶であるジェラルドこの場にいなかった。二人は争う理由がなかった。


「おねえちゃん、ピアノ弾いて」


シェリルは、アンの側に寄るなり、そうお願いした。シェリルは当然の事ながらピアノが弾けなかった。アンやマリーが弾くのをその傍らで聞くばかりではあったが、シェリルはピアノの放つその華麗で繊細な音色が好きであった


 アンはシェリルの願素直に聞き入れピアノを弾き始め。シェリルが出来ないことを自分がするわけだから悪い気はしなかった。また、アン自身、ピアノが好きであった。ピアノを聴くのではなく弾くことが好きであった。他ならぬ自分の指が、無機的なピアノという存在に生命を吹き込み、そこから、妙なる音色が紡ぎ出されるとう事実が好きであったのだ。


 教養の一環として、アンは、幼いから教師についてピアノを勉強してきており、彼女の腕前はすでに相当のものであった。その音色にシェリルは聴き惚れ



二曲ほど弾いたところで、アンはピアノの演奏をやめた。シェリルは、まだ満足はしていなかったが、「おねえちゃん、上手」とアンのピアノの腕前を賞賛した。



つまらない虚栄心だとは知りながら、シェリルの賛辞に満足した様子で、アンが、シェリルに嬉しい提案をした。


「シェリル、こっちにいらしゃい。おねえちゃんがピアノを教えて上げる」


 その提案にシェリルはすぐさま飛びついた。アンのもとに駆け寄ると、「ヨイショッ」とかけ声とともに椅子をおろし、それから体の向きを変えた。しかし、アンに合わせて調節された椅子は、シェリルには余りに高すぎた。足が宙ぶらりの状態で、床には当然の事、ペダルまで届かなかった。


 シェリルのこの姿を見て笑いを憶えたが、アンはそれをこらえ、「シェリル、手を貸して」と言い、後ろからシェリルの右手をとり、ピアノの鍵盤の上に彼女の指を置いた。


 シェリルは、そのピアノの音に驚き、そしてその音を出したのが自分であることを知り、さらに驚いた。


「さあ、自分で弾いてご覧なさい」


 アンそう薦めてきたが、シェリルは少しためらった。どう弾いたら良いのか分からなかったからだ。シェリルは暫く何かを考え、それから意を決したように、恐る恐る右手の人差指を近づけ。指が鍵盤に触れた瞬間、「ポロン」という甲高い澄んだ音がした。そのことに感動し、もう一度、今度は別の所に恐る恐る指を近づけた。今度は先ほどよりさらに高い音がした。シェリルは少しだけピアノという楽器の構造を理解した。


しかし、所詮、六歳の子供である。ピアノの仕組みを少しだけ理解したところですぐにピアノが弾けるわけはなく、シェリルは、ただ嬉しそうに、ピアノの鍵盤を叩き始めた。それは音楽に最も遠い騒音に過ぎなかったけれど、シェリルは、まるで音楽家になった気分で夢中に演奏続けた


 一方、アンは、シェリルの無邪気なその様子にしばし目を細めて見守っていたが、次第にその雑音が耳に障ってきた。そこで、アンは、シェリルに演奏をやめさせるために、シェリルに声をかけた。


「シェリル、楽しい」


 シェリルは、その声で一旦演奏を中断したそして、振り返ることなく、「うん」と短く返事すると、演奏を再開しようとした。しかし、後ろからアンの手が迫り、阻止されてしまったこのことに抗議しようと振り向こうとした時、アンがシェリルの人先指だけを手に取り、シェリルの指で簡単な曲を弾き始めた。


 今までとは異なり、それが音楽になっていることに気が付き、シェリルは自分の指が生み出した音に耳を澄ました。そして、その曲が終ったとき、「おねえちゃん、もっとシェリル弾きたい。もっと教えて」と、アンにお願いした。そして、アンは笑って頷いた。


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